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ロングウォーク・オブ・ナバホ=ナバホ族を強制移住

ロングウォーク・オブ・ナバホ
ナバホ族を強制移住
Long Walk Navajo

アブラハムリンカーンとナバホ族

アブラハムリンカーンとナバホ族

1864年に実行されたアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンの命令によるインディアン民族に対する民族浄化の事。

ナバホ族インディアンが騎兵隊によって20日以上の徒歩の旅を強いられ、ニューメキシコ州南東部の強制収容所へ移住させられた。

リンカーン大統領の「ナバホ族を強制移住させる」計画は、エドワード・キャンビー将軍によって考えられ、ジェームス・H・カールトン准将がその任務を受けた。

カールトンはナバホ族の土地に金鉱があるともくろんでおり、司令者であるリンカーン大統領はこれになんの異議も唱えなかった。

アメリカ合衆国は西部への植民地、フロンティア拡大の障害となるインディアン部族の民族浄化として、トーマス・ジェファーソンからの政府として、

食糧や物資等の年金の配給と引き換えに、インディアン部族を指定保留地へ定住させる和平条約の締結を進めていた。

ナバホ族の伝統的な故郷は、アリゾナ北東部とニューメキシコ西部、北にはユタとコロラドがある、4つの神聖な山々の境界にある土地だった。

キャニオン・デ・シェイなどの峡谷の肥沃な谷底で農作と牧畜を営んでいたが、多くのインディアン部族と同様、ナバホ族もこの条約の違反に対して抗議の声を上げ、

これはアメリカ陸軍による武力弾圧という形でインディアン戦争となった。

キット・カーソン

キット・カーソン

ナバホ族を強制移住 指導者 キッド・カーソン

アメリカ合衆国西部の開拓者。ケンタッキー州リッチモンド近くで生まれ、ミズーリ州フランクリンで幼少時を過ごす。

15歳の時に鞍職人の見習い工として当時メキシコ領だったニューメキシコ州に移住し、交易者と罠猟師として独立した。

アメリカ南西部で過ごす間、ガイド、偵察役、インディアンの代理人、羊飼い、農家、牧場主、軍人としても活躍した。

太平洋までの西部交易路を地図にしたジョン・C・フレモント探検隊のガイドをして、カーソンの評判は上がった。

フレモントによると、カーソンは中背で肩幅が広く、胸板が厚く、はっきりした青い目で親しげに話し、慎み深く物静かだったという。

ニューメキシコ地区の新しい連邦司令官、ジェームス・ヘンリー・カールトン准将は、キッド・カーソンにナバホ族に対する遠征を率いるように命じた。

略奪騎馬部族であるナバホ族は、リオ・グランデ川流域全域に点在するプエブロ族インディアンとヨーロッパ人の新参者を襲い、略奪行為を続けた。

カールトンの指揮の下、カーソンは焦土作戦を開始した。ナバホ族の家と畑を燃やし、家畜も没収するか殺すかした。

彼はナバホ族と敵対する他のインディアン部族、主にユテ族の協力を得た。

キット・カーソン

キット・カーソン

ナバホ戦役では小さな小競り合いが続き、カーソンは捕らえたすべてのナバホ族を収監した。

1864年1月、カーソンはキャニオン・デ・シェイに仲間を送り、マヌエリト酋長を代表とするナバホ族の最後の本拠地を襲わせた。

家畜と食物を破壊され、ナバホ族は降参するしかなかった。

1864年の春、8000名のナバホ族は、ほとんど徒歩でニューメキシコのサムナー砦まで約480kmの距離を移動させられ、少なくとも200名が死んだ。

これが有名な「ロング・ウォーク・オブ・ナバホ」である。

1868年、合衆国政府との条約を結び、残ったナバホ族たちはようやく彼らの故地に戻ることを許可され、キャニオン・デ・シェイ周辺を中心にしたナバホ族の故地に戻った。

それが今日存在するナバホ族の保留地である。

しかしその地には、彼らのいない間に近隣のホピ族が住み着いており、現在も恨みを残す族間の係争となっている。

1864年11月、カーソンはカールトン将軍により、テキサス西部のインディアン部族との取り引きを命令された。

カーソンと彼の騎馬部隊は、ウィリアム・ベントの建てたアドベ建築の交易所と酒場の廃墟、アドビ・ウォールズで1500名以上のカイオワ族、コマンチ族、シャイアン族の連合軍とはち合わせた。

アドビ・ウォールズの戦いでは、ドハサン率いるインディアンの連合軍がカーソンの部隊に攻撃をしかけたが、カーソンはインディアンのキャンプとティピーを燃やして手痛い損失を与えた。

この数日後、ジョン・チヴィントン大佐は合衆国軍隊を率いてサンドクリークの虐殺を行った。

チヴィントンは、自分はカーソンを越え、すぐ「インディアン殺し」として有名になるだろうと豪語した。

カーソンはこの虐殺に激怒し、チヴィントンの行動を公に非難した。しかしながらサンドクリークとアドビ・ウォールズは、どちらも1865年のコマンチ族とのリトルロック停戦条約の締結に一役買った。

キット・カーソン退役後

南北戦争終了後、インディアン戦役も完了し、カーソンは退役して牧場に戻り、最終的にはコロラド州ボグスヴィルに落ち着いた。

カーソンは動脈瘤によって59歳で亡くなり、ニューメキシコ州タオスに埋葬された。

キット・カーソンにちなむ地名

アメリカ南西部には、ネバダ州カーソンシティ、コロラド州キット・カーソン郡、ニューメキシコ州のカーソン国有林など、キット・カーソンにちなんだ地名が数多くある。

「辺境の地で野蛮人のインディアンと渡り合い、開拓者を助ける罠猟師」としてのカーソンのキャラクターは、ジョージ・アームストロング・カスターと並んで、アメリカ白人大衆の格好の英雄像となった。

年代の古いものは多くの西部劇映画と同様に、カーソンのキャラクターをロマンチックに美化する一方でインディアンを「白人を襲う残虐な野蛮人」として描くものが多い。

アブラハムリンカーン

アブラハムリンカーン

エイブラハム・リンカーン

1809年2月12日 ~1865年4月15日は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士である。弁護士、イリノイ州議員、上院議員を経て、1861年3月4日、第16代アメリカ合衆国大統領に就任した。

イリノイ州の英雄でもあるがインディアンに対しては徹底的に排除し又同化政策を行った。エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国最初の共和党所属の大統領である。

そして、アメリカ合衆国大統領を務めた個々の人物の業績をランク付けするために実施された政治学における調査結果

「歴代アメリカ合衆国大統領のランキング」において、「最も偉大な大統領」の1人に挙げられている。

1863年11月9日、ゲティスバーグ国立戦没者墓地の開会式において行われた世界的に有名な演説である

「ゲティスバーグ演説」において、「国民の国民による国民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである」と言う民主主義の基礎を主張した。

アメリカ合衆国南部における奴隷解放、南北戦争による国家分裂の危機を乗り越えた政治的業績、リーダーシップ等が、歴史的に高く評価されている。

 

 

 

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