ナインマイルキャニオン ユタ州
Nine Mile Canyon Utah
ユタ州で最も壮大なロックアート(インディアンの岩絵)はユタ州北東山の中に位置するナイン・マイル・キャニオンにあるナインマイルキャニオンの名前由来の由来は、
グランドキャニオンの地域の地図を始めて描いた探検家ジョン・ウェズリー・パウエルは1869年にユタ州を経由して政府の遠征を率いた。
遠征隊のFM・ビショップが測量した際、9マイルの三角測量図を描いた事からナインマイルキャニオン名前が付けられた。
キャニオンの長さは65kmですが、この地域をナイン・マイルキャニオンと名づけられた。
ジョン・ウェズリー・パウエル探検隊が議会に提示した地図には、ナインマイル・クリークとビショップ・リッジの標識が明示されている。
ザ・グレート・ハンター パネル
ナイン・マイル・キャニオンは、インディアンが狩をしていた様子をえがいた世界的に有名な「ザ・グレートハンター」を含む数多くのロックアートパネルがあり「世界最大のアートギャラリー」と呼ばれています。
ロックアートの殆どの年代は、約1000年前にこの地域に生活していたをフリーモント・インディアンによって描かれました。
アメリカ合衆国南西部で古代ペトログリフ(岩絵)を描いた2種族
1.フリーモント族、ユタ、ネバダ、アイダホ州を拠点にしていた
2.アナザジ族、ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州、アリゾナ州を拠点にしていた
アナサジは、後の時代に、この地にやって来たナバホ族の言葉で敵の先祖を意味する言葉する。
アナサジ族の事を古代プエブロ族と呼んでいた。又少数派のナバホ族の中には、音節を変えてアノサジ(埋もれた先祖の意味)という名称を使う人がいた。
フレモント族は、ペトログリフを盛んに描いた種族で広範囲の場所に痕跡を残している。北部のダイナーソワー国定公園から南部はキャニオンランズ国立公園など広い範囲に広がり、
造形もさまざまで独自様式の土偶を作った。
アナサジ族の岩絵は、チャコキャニオンなどに一部残っている。チャコキャニオンでは、かに星雲となった超新星爆発を描いた物がある。
メサベルデ国立公園のサンテンプルの遺跡には、太陽のコロナを描いた石がある。
両部族共、紀元前から13世紀末まで存在し、フレモント族は狩猟採集民族、古代プエブロ族は繁栄した農耕文化であったがその後突然に衰退していった。
フリーモント・インディアン
AD300年にナイン・マイル・キャニオンを拠点にしていたネイティブアメリカンは、フリーモント・カルチャーとして知られユタ州の文明の一部です。
フリーモントは、以前はコロラド西部とグレートベイスンの西部に住んでいた独特の独特の先史文化です。
約AD700年から1250年の時代はフリーモントの文化の高さが、岩絵や遺跡に残されています。
750年頃、フリーモント族は 地域の中心部に村があり発達した文化を持っていた。彼らは伝統的な狩猟をやめて、陶器を作り、家や食料貯蔵施設を作り、トウモロコシを栽培した。
木材や泥を巧みに使い、穀物倉庫や洗練され灌漑などの技術をもっていた。
AD1250年から1500年の間にフリーモントの文化は突然消えた、消滅の正確な理由は不明である。
その後、 開拓精神あふれるユーテ族とパイユート族、ショショニー族はこの時期にこの地域に移って来た。彼らはフリーモント族の文化の影響を受けたと考えられる。
フリーモント文化の崩壊の原因は分かっていませんが、フリーモントの文化は、豊かな古代人で豊富な知識を持っていた。
ジョン・ウェズリー・パウエル
John Wesley Powell
アメリカ合衆国の軍人、地質学者、アメリカ西部の探検家(1834年3月24日~1902年9月23日)
ニューヨークのマウントモリスで生まれの父親は、イギリスから1830年に移民してきた貧しい巡回説教師であった。
若い頃に自然に興味を持ちミシシッピ川の峡谷の冒険旅行や4ヶ月かけてウィスコンシン州を徒歩で横断した。
1869年のパウエル探検隊を率いたてグランドキャニオン周辺の地図を始めて記録し、3ヶ月にわたりグリーン川とコロラド川を下った。
1856年にはミシシッピ川をミネソタ州のアンソニーから河口までボートで下った。
1857年にもボートでオハイオ川を下り、1858年イリノイ川を下り、さらにミシシッピまで川を遡り、デモイン川でアイオワ中部まで航行した。
25歳でイリノイ自然史協会の会員になった。
南北戦争が始まると北軍に志願し、シャイローの戦いで右腕を失うが、軍人として転戦を続けた。
戦争が終わるとイリノイウェズリアン大学の地質学の教授に任じられ、イリノイ州立大学ノーマル校でも講義をおこなった。