インディアン居留地又は保留地
Indian Resarvation
アメリカ合衆国内務省インディアン管理局(BIA)の管理下にあるインディアン部族の領有する土地。
リザベーションという呼び名が一般的だが有力な民族のものは自治権が強く1つの国家にも等しい力を持つとされネイション=国家である。
西部開拓時代には「インディアン・テリトリー(領)」と呼ばれていた。「インディアン自治区」と呼ばれる事も多い。
白人達がアメリカ大陸を開拓する上でぶち当たる問題で、インディアンとの土地問題を解決すべく、彼らと条約を結び保留地に住まわせるという政策は、アメリカ合衆国の開拓の歴史であった。
白人政府とインディアン各部族との間に結ばれた、保留地を軸とした条約の数は、実に371に上る。
インディアンが強制的に移住させられた居留地。アメリカ南西部の殆どの土地は耕作不能な荒野に設けられている。
アメリカ合衆国におけるインディアンの居住地として指定された地区で、ミシシッピ以西のオクラホマなどに約22万平方キロ。
インディアン・リザヴェイション(居留地)は現在286か所あり、アリゾナ州やニューメキシコ州に集中している。
居住地のインディアンに市民権が与えられるのは1924年に成ってからの事で、投票権に至っては第二次世界大戦後の1948年以降に成る。
現在は連邦政府の内務省インディアン総務局の管理課にあり、それぞれ一定の議会、自治政府の構成等、自治が与えられている。
アメリカ政府のインディアン政策インターコース法の可決
1790年から1834年に「インターコース法」が可決された。
インディアン達に安住の地である「保留地」を与える事でインディアン達を白人文化と同化させていく政策を行った。保留地内の法律は、部族独自に委ねられた。
大統領が任命する保留地監督官が、連邦と部族の連絡、「年金(食糧)」の分配、ウィスキーの密売業者の逮捕、白人不法侵入者の排除、各部族間、又政府との部族の交渉の調整、就職技術の教育指導を担う。
実際にはこれらの方針は全く機能せず、放置された。
南北戦争と保留地監督官の横領によって、食糧の供給は満足に行われず、保留地は常に飢餓状態に陥り、スー族のミネソタ大暴動、インディアンの反乱の元と成った。
1860年代を前後してユリシーズ・グラント、ウィリアム・シャーマンといった白人指導者たちは、「保留地に入らないインディアン部族は絶滅させる」という絶滅政策を採り、保留地をインディアン部族を隔離・管理する為の収容所化していく。
1830年のインディアン強制移住法でミシシッピ以東のインディアンをミシシッピ以西に強制的に移住させ、1834年には居留地を設け移住させられた。
インディアンの抵抗が続いたが、最後に残ったチェロキーも1838年から1839年、オクラホマの居留地に集団移住させられ涙の旅路と言われている。
1849年にインディアン事務局が陸軍省から国土省に移され、保護政策へと転換した。
しかし実際には、連邦政府は保留地を通過する鉄道を許可し、白人の放牧や木材の伐採を許すという矛盾した行為を行っている。
又、保留地内で金や銀の鉱脈が発見されると、白人がその中に無断で入り込んでいった。
1860年代に白人とインディアンの武力闘争が頂点に達すると、連邦政府はインディアン対策の抜本的転換を迫られた。
ドーズ法の可決
保留地囲い込みと同時に、議会に対する白人開拓者や農場主たちによる、インディアン達の領土の明け渡しと開拓を可能にする新法の要求は、年々強まっていた。
こうしたなかで、1886年に可決されたドーズ法は、インディアン保留地内の土地を個人のものとして細分化し、不動産化していく決定的な法律となった。
このドーズ法の下、部族の土地はわずかな年金や品物と交換されて(それもまともに支払われることはほとんど無かった)矮小化されていった。
不動産の概念のないインディアン達は、4千平方メートル当たり50セントで売買契約させられた。
(反抗的だったシッティング・ブルの部族、ハンクパパ族の「スタンディング・ロック保留地」では、同じ面積で25セントにさせられた。)
1889年までに、西部のインディアン部族の土地は、3年間で16万平方キロメートル売り渡された。
1868年のララミー条約で、「不可侵の土地」と約されたスー族の広大な「グレート・スー・ネイション」も、ブラックヒルズに金鉱が見つかるとたちまち蹂躙され収奪されていった。
16万平方キロメートルの没収された土地の内、4万1600平方キロメートルは、スー族が命の糧としていた、先祖代々からの猟場だった。
そこで武力制圧と並行して、土地私有の概念を持たないインディアンに対して自営地を与え、狩猟生活から農耕生活に転換させ、自営農化する為、1887年に対インディアン土地附与法を制定した。
これによってインディアンの各家族の長に対しては160エーカー、18歳以上の独身者には80エーカーの土地を与え、その土地の譲渡を禁止し、将来の合衆国市民権を与える事を約束した。
インディアンに対する義務教育も1891年(ウーンデットニーの虐殺の翌年)に実施され、約束された市民権は1924年に与えられた。
1934年にはインディアン再組織法が制定されて、一般のアメリカ人の自治町村と同じ自治権が認められ、経済的発展の為に政府貸与金が支給された。
バッファロー絶滅政策
西部のスー族など平原部族の「保留地」への囲い込み交渉は最後までもつれた。
この為、連邦政府は平原部族の主要な食糧と成っていたバッファロー(バイソン)を、政策として野生界から絶滅させ、食糧を断つ作戦を採った。
大陸横断鉄道が敷設されると、政府は官製の狩猟ツアーを募り、窓から無差別にバッファローを撃たせてこれを殺させた。
入植者達は条約を無視して勝手に保留地に入り込み、部族の猟場でバッファローを虐殺したが、保留地監督官は部族の抗議を無視した。
こうして19世紀初頭に4千万頭を超えていたバッファローは、19世紀末には野生状態ではついに絶滅に近い状態となった。
飢餓状態となった平原の部族は保留地に入らざるを得なくなった。
ナバホ居留地
ナバホ族立大学 1960~70年代の黒人の公民権運動は、インディアンにも強い影響を与え、AIM(アメリカン・インディアン・ムーブメント)による活発な運動が展開された。
その成果として、インディアン自身の中に自分たちの言語や芸術などの文化伝統を学ぶ、高等教育機関の必要が自覚されるようになり、インディアン公民権法が成立した1968年の翌年、ナバホ・コミュニティー・カレッジが設立された。
近年、アリゾナ州立大学のバックアップをうけて一部が四年制大学と成り、名称もディッネ・カレッジと成った。ディッネとはナバホ語でOur peopleの意味。
現在、約2千人の生徒が、ナバホ語や歴史、文化、社会などを学んでいる。
現在他の部族にも族立大学は広がり、全米で33校に成っている。
ナバホ・ネーション
インディアン居留地で最大であるナバホ居留地は、アリゾナ州・ニューメキシコ州・コロラド州にまたがる8万平方kmで
(約北海道と同じ大きさ)に約20万人のナバホ人が居住している。
居留地の部族は政府を持ち、警察も裁判も行うが、重要犯罪は連邦裁判所管轄に置かれている。
居留地はインディアンが自由に使えるのが建前であるが、経済的に自立できない居留地では連邦政府からの資金援助を受けており、その分、自治権も制約される。
現在はインディアンは居留地以外のどこに住んでも良く、ナバホも約10万は居留地以外で暮らしている。
土地は部族の公有地であり住民税は無い。ここには正当な理由が無ければ白人は住むことが出来ない。
ナバホ族立大学も居留地自治政府が運営している。
居留地への移動 南北戦争の時にまだ州でなかったニューメキシコに入った北軍のカールトンは、反抗的なインディアンを徹底的に懲らしめようとインディアンに詳しいキット・カーソンを派遣した。
キット・カースンは軍隊を与えられ、アパッチやナバホを次々と攻撃して追い詰め、1863年にサムナー砦に強制的に移動させた。
数百キロの道のりを移動して、約1万1千のナバホ等が砦に収容されたが、この移動とそこでの生活は悲惨なもので、4年間に約3000人が死亡した。