ワッツタワー ロサンゼルス
Watts Tower Los Angeles
ロサンゼルスのワッツ地区ダウンタウンLAから南に30分くらいの場所にワッツがあるかつては、カリフォルニアで1、2を争う治安の悪さとして挙げられていた街で、
こちらもギャングスタラップで有名なコンプトンと同じくらい悪名高いエリアで有名です。
勿論、観光ガイドブックからは除外されているエリアでカリフォルニアに住んでいる住民でもわざわざ行く人は少ない。
また、過去に歴史的な暴動が起こったり有名なギャングスタラップのアーティストやミュージシャンが輩出されている。
ワッツの街全体の雰囲気と治安は最悪です。特にワッツタワーに行く際の町並みはその治安を物語っています。
ワッツ とは?
カリフォルニア州南部のロサンゼルス南部にある町、レインウッドとサウス・ゲートの東と南東に接し、ウイローブルックの南には属していないコミュニティです。
ワッツの人口
人口約41000人で人種の割合は、ヒスパニックは人口の約60%を占め、黒人は約38%、非ヒスパニック系白人は0.5%、アジア系は0.2%である。
牧場のコミュニティとして19世紀後半に設立された。
鉄道の到着とワッツ駅の建設はワットの独立した都市としての急速な発展を見せたが、1926年にはロサンゼルスに統合された。
ワッツは1940年代には主に労働者階級のアフリカ系アメリカ人の地域になった。
1960年代からはワッツの暴動やストリート・ギャングの影響を受けて、低所得・高犯罪地域になった。
ワッツはアフリカ系アメリカ人の少数派で、主にヒスパニック系の地域であり、1990年代以降の犯罪率の低下にもかかわらず、ロサンゼルスで最も貧しく危険な地区の1つです。
ワッツはロサンゼルスの歴史的・文化的記念碑であり、歴史的遺産の国民登録簿にも記載されている、サイモン・ロディアのランドマークのワッッ・タワーで世界的に知られています。
この地域はまた、数多くの形式のメディア、特に西海岸のヒップホップ音楽、ロサンゼルスの映画やテレビ番組で紹介される。
ワッツの歴史
ワッツとして現在知られているエリアは、1843年のランチョ・ラ・タホウタ・メキシコの土地で、主要な職業は放牧と牛肉の生産でした。
ラ・タジュアタの土地は1870年代に南米に流入し、1886年にチャールズ・ワッツがアルファルファと家畜の養殖のために購入した
220エーカーの小包を含む小規模な農場や家屋に分けられました。
当時、各タホアタの農場には陶器の井戸がありました。
鉄道の到着はその地域の発展を促した。最初の居住者のほとんどは、新しい鉄道路線を建設し維持していたトラキュウエロス、メキシコ人の鉄道労働者でした。
ワッツの家族から寄付された10エーカーの土地で1904年に建設された最初の鉄道駅であるワッツ駅が創設された。
ワッツは1926年にロサンゼルスに附属された。
1914年に、黒い不動産業者、チャールズ・C・リークがこの地域でビジネスを行い、人種差別で黒人がセントラルアベニュー地区とワット以外の地域に住んでいた。
第二次世界大戦では、ルイジアナ州、ミシシッピ州、アーカンソー州、テキサス州の数万人のアフリカ系アメリカ人移住者が、カリフォルニア州へチャンスを求め移住した。
第二次世界大戦中、この都市は戦争産業の何千人もの新しい労働者のためにいくつかの大規模な住宅プロジェクト(ニッカーソン・ガーデン、ジョーダン・ダウン、インペリアル・コートなど)を建設しました。
ワッツは1940年代までは黒人の町ではなかったが、1960年代初めには、白人が中心都市の外にある新しい郊外に移ったので、これらのプロジェクトは100%黒人になった。
ワッツの産業雇用が消滅したため、プロジェクトは多くの貧しい家族を収容していた。
警察や不十分な公共サービス(特に学校や病院)による差別的扱いに対するロサンゼルスの労働者階級の黒人社会による長年の憤りは、ワッツの暴動として知られて1965年8月11日に爆発した。
カリフォルニアのハイウェイパトロールによる酔っ払い運転犯罪による黒人の逮捕は、ワット以外で発生したが、ギャングは混乱の中でワットで最も損害を受けました。
ワットは、強盗が強まり、近隣の暴力が多発し、1970年代にさらに悪化した。
1989年から2005年の間に、500件以上の殺人事件が起こり、ほとんどは不法薬物関連の抗争であった。
ワッツのギャング
Watts Cirkle City Piru、Grape Street Watts Crips、Bounty Hunter Watts Bloods、PJ Watts Crips 。
1992年4月26日に平和条約を締結した。
ワッツ・タワー
三角形の土地の外周には、装飾の施された壁があります。もともとは壁は道に面していたのですが、現在は前記の様にその壁の外側に保護のための柵が建てられています。
その壁の内部に、塔を中心として「あづまや」の様な機能を持ったものからオブジェまでが、塔から伸びる「腕」や「足」によって有機的に連結されています。
屋根は無いものの見えない境界が作られており、中にいると隠れ家的な感覚になります。
感覚的高さ
複数ある塔は一番高いもので約30m、ビル8階建て位の高さがあり、鉄をモルタルで覆い、そこにタイルや瓶、その他色々なものを埋め込んだ、彫刻です。
ロサンゼルスでは、住宅はアパートのような集合住宅を除くと、多くが平屋、高くても2階建てです。
そんななかで、ヤシや木の電信柱は開けた視界に助けられて実際の高さ以上に高く、すらっと見えるので、そういった「塔」的なものに目が慣れてしまっているせいかもしれません。
塔を遠目からではなく足元から観て、その細かい手作業の集積を目の当たりにして、それが塔の上まで続いていると思うと、工業製品とは比べものにならないエネルギーが伝わって来て、改めて高さを感じずにはいられないのです。
ロディアはその高い塔を足場を組まずに製作しました。
それまでに完成した部分を足場として工具、材料を持ち登って作ったのです。
そんなロディアが塔を登る姿を想像すると、塔がより高く思えてくるのです。
有機的構造
構造は棒状の鉄を鉄製の網で覆い、そこにモルタルを手作業で塗り付けたもので、材料の微妙な違いはあるものの、基本的には鉄筋コンクリート造といえます。
ボルトや溶接を一切使わずに、工具も電動ではなく基本的なものだけを使って建てているにも係わらず、内から外へ3次元に複雑に入り組んだ塔の「足」はフライング・バットレスとも呼ばれ、1959年の取り壊しを逃れるための条件となった構造テストにも余裕をもって通る程の強さがあります。
10,000ポンドテストといわれ、塔の上部を横から10,000ポンドの力で引き、それに耐え得るかのテスト。
ワッツ・タワーはテストを行う機械(車)が壊れてしまうほど強かったそうです。
時の刻まれた装飾
装飾は、タイルや瓶を中心に様々なものを工夫して作られています。
材料は他のものを含め、全て拾ったりタダで手に入れたものばかりで、タワーの装飾は自然と製作期間の時代時代に多く存在したもの、地域に存在したものばかりとなっています。
そんな「時」や「場所」をまとったタワーを眺め、その時代を想像していると、楽しくて時間の経つのを忘れてしまいます。
なかには人形もあったりして、ロディアの人柄が伝わってきます。
拾ってきたものをそのままモルタルへ埋め込むだけでなく、色々な方法で形を変えたり、間接的に使用したりと工夫が見られて、機械的に材料を埋め込んでいったのではないこともうかがえます。
その全ての装飾が一つ一つ手で創られ、違ったものである様は、スケールは全く違うものの、スペインで今もなお建設の続くアントニオ・ガウディ設計のサグラダ・ファミリアに共通するものを感じます。
その装飾の多様さ、塔の複雑かつ有機的な形態は、30年という長い製作年月の重みを持っています。
そして、それをたった独りで創りつづけたという事実は、ワッツ・タワーへの敬意をより深いものにし、それを観た者へエネルギーを分け与えてくれます。
ワッツ・タワー サイモン・ロディア
Watts Towers Simon Rodia
サイモン・ロディア本名サバト・ロディア、知人からはたんに「サム」と呼ばれた。
1879年2月12日~1965年7月16日)はイタリアからアメリカに移民し、人生のほとんどをカリフォルニア州ロサンゼルスで過ごした人物。
彼はロサンゼルスのスラム街、ワッツ地区で暮らし、「ワッツ・タワー」と呼ばれる高層建築を自力で作り上げたことで知られる。
ナポリ付近にあるセリーノの町で生まれたロディアは15歳の頃、ペンシルベニア州に住む兄を頼ってアメリカへ移民した。
兄が鉱山事故で死んで以降、一人になったロディアは西海岸へ移り、シアトルやオークランドなどを転々として鉱山や工事現場で現場労働者として働いた。
その後1920年からはワッツで日雇いの左官として働いていたが、1921年に突然自分の土地に塔を建て始めた。
彼はまったく建築に関する学習などを受けておらず、そのすべては見よう見まねだった。
溶接していない形ばかりの鉄筋をセメントで固め、ゴミ捨て場からセブンアップなどのビンや色鮮やかなタイルの破片を拾ってセメントに埋め込んで独力で14本の塔を建て、高い塔は30mにも達する。
彼は1954年、塔の建設を終えて土地などを近隣の人に譲り、ワッツを去っていった。
塔の集合体をロディアは「Nuestro Pueblo」(われらの町)と呼んだ。
なぜ塔を造るのかと問われたロディアは、ただ「何か大きなことをやるべきだと思った。だからやった」と答えたという。
彼がワッツを去った原因は、塔に対する子供達の嫌がらせや苦情など、近隣とのトラブルによる疲れであった。
彼は突如カリフォルニア州マルティネスに移住し、亡くなるまでの10年をそこで暮らした。
シアトル在住時に結婚し3人の子供もいたが、ワッツでは孤独な生活を送り親しい友人はいなかった。
彼はワッツを去った後、二度と自分の塔を見なかったと考えられる。
ロサンゼルス市はこの塔を不許可建築として取り壊そうとしたが、この塔の価値に注目した映画業界人、美術研究者、建築家らによって守られた。
その後1990年にはアメリカ国定歴史建造物に指定され、ワッツ地区を舞台にしたテレビ番組や映画では欠かせない風景として親しまれている。
ロディアという姓は「ロデラ 」や「ロディラ 」だったという説、また名もサバトではなく「サバティーノ 」だったという説もある。
これらの説は支持はあまり受けていない。彼の名自体、移民手続きの際の字の綴り間違いだった可能性もある。
ビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」には、ロディアの顔写真が掲載されている。
ワッツ地区には彼の名を使用したシモン・ロディア・ハイスクールがある。
1727 East 107th Street, Los Angeles CA90002 USA