ロサンゼルス カリフォルニア州
Los Angeles CA
Los Angelesの都市名はスペイン語のlos ángeles「天使」を意味する
人口約976万人アメリカ カリフォルニア州の都市ニューヨークに次いで人口が多い
ロサンゼルスの歴史
西海岸で、トングヴァ族チュマシュ族、カフイラ族、モハベ族、クメヤーイー族のインディアン部族が漁猟採集生活をしていた
カヌーを使って周辺部族と交易、貝殻の装飾品や滑石の器や彫刻を作り魚の他にアシカやカワウソクジラを狩った
1542年、白人で初めてファン・カブリージョが船でこの地を訪れ、トングヴァ族に歓迎された。
この探検家はサンタカタリナ島で死去した。
1769年から1771年に、スペイン人はこの地に「サンガブリエル・アークアンへル伝道所」を建設した。
1777年、スペイン人のネベ総督が一般市民の居住する村落を計画。
1781年に、ロス・アンヘルス住民がダウンタウンのオルベラ街あたりに小さな村落を建設。
地名はそれ以前にモンテレー湾を目指していたポルトラという男が、聖母マリアに因んでLos Angelesと名付けていた。
スペイン人はこの地に農場を作り始め、インディアン達を捕え、キリスト教に強制改宗させて「ミッション・インディアン」と名付け、
農場労働や周辺部族の監督役に成った。「ミッション・インディアン」はカリフォルニア独自のインディアン集団となっている。
1804年、スペイン領ヌエバ・エスパーニャのラス・カリフォルニアズが分割されアルタ・カリフォルニアになった。
1821年にはメキシコ帝国が独立し、メキシコ帝国領となったが1年程でメキシコ合衆国に移行。
1848年、アメリカ・メキシコ戦争中にジョン・C・フレモントのベアフラッグ反乱をきっかけに独立したカリフォルニア共和国は、
グアダルーペ・イダルゴ条約によりメキシコ割譲地、アリゾナ・ニューメキシコ、にアメリカ合衆国領となった。
1850年には市制が敷かれたが、人口はまだ1610人。1853年、ガズデン購入に際し、米墨国境線が確定。
鉄道網の発達に伴って、とりわけ柑橘類を始め、野菜、穀物、牧畜などを東部に運び出すための集散地として北部のサンフランシスコと共に発展、
同時にパサデナやバーバンク、サンタモニカなどの郊外都市も発展し、メトロポリス形成の基盤となる。
ロサンゼルスの発展は20世紀に入ってからである
1つ目は19世紀末の油田発見による石油化学工業の発達
2つ目は大戦中に急伸した航空機産業の発達
3つ目はハリウッドに代表される映画産業の発達が大きい
そして自動車交通の発展である
ロサンゼルス都市圏
非常に広域である為、交通手段に車は欠かせない。
他の都市より早くフリーウェイを10本以上整備。
交通手段のパシフィック電鉄の路面電車は、1930年代から1960年代に撤去され、自動車の都市と成った。
1980年代は大気汚染が深刻したが、改善されてきている。
飲料水、工業用水の確保が急務と成ったが1913年にシエラネバダ山脈の東部を流れるオーエンズ川と市を結ぶ水路を建設、
1936年には、豊富な水量を持つコロラド川から水を供給。
第二次世界大戦中
日本軍の空襲に備えて対空砲や防空レーダー、防空シェルターの整備が行われ、日本軍の上陸や空襲を恐れ、日系人の強制収容が行われ、
たが、ロサンゼルスへの日本軍の上陸や空襲は無かった。
1942年、日本海軍の潜水艦が活発な活動を行い、艦艇が攻撃、撃沈され、サンタバーバラの製油所が日本海軍艦艇の砲撃を受けた。
第二次世界大戦時、ロサンゼルスは軍事物資や原油の供給地として発展、ダグラス・エアクラフトやロッキードの軍用機の需要で市は潤った。
1900年には10万人だった人口は1960年には248万人まで膨れあがった、住宅供給が課題となり、
郊外に大規模な一戸建て住宅地を提供していったが、カーン郡地震発生を機に1957年に市街の高度制限を撤廃、地価高騰し中高層集合型住宅が急増。
ダウンタウンには高層ビル群がそびえ立つように成り、大都市へと成長している。ノースリッジ地震の被害を受け、災害対策が充実。
西海岸最大の商業、金融拠点。中東やメキシコ湾沿岸からの低価な原油の供給より、原油の掘削は行われ無く成った。
電子機器、半導体、宇宙産業など最先端工業が発展。学術、文化都市として培っていた
技術力の蓄積、軍事産業や航空機産業関係者が持つ高度な技術力の産業形態転換によるものが大きく現在のロサンゼルス経済の主力に成っている。
貿易の拠点で太平洋側では最大の貿易窓口。アジア向け市場の窓口としての役割は大きく、シアトル、オークランド、サンディエゴ共に機能を果たす。