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リトル東京 ロサンゼルス

ロサンゼルス日系人の歴史
Little Tokyo Los Angeles

ハワイ移民

日系アメリカ人の歴史は19世紀末の移民に始まり最初の移民たちはハワイのサトウキビやパイナップル畑の労働者として入植したしかし低賃金で働く勤勉さと生活力、また日用品を日本から取り寄せ、地元経済に金を落とさない事と文化が異なる黄色人種であった為、第一次世界大戦における同盟国であったにもかかわらず、カリフォルニア州などでは白人による日系移民の排斥運動が起こった。

そして第二次世界大戦時における日米間の対立と日系人の強制収容という悲劇を乗り越え、日系人による経済的成功や社会的成功と合わせて、日本とアメリカの同盟関係の構築や1960年代以降の公民権運動、日米間の経済的な結びつきの強化などが後押し、アメリカ社会における地位向上がなされた。

江戸時代 、既に移民が開始されていた中国人により、日本人女性が人身売買同然にアメリカに連れて行かれ、売春宿で働かされていたとの記録が残っている。

1806年 大坂の稲若丸の乗組員8名が漂流中にアメリカ船に救出された後にハワイへ送られ、8名はハワイに初めて上陸した日本人となる。

1884年 日本から北米大陸への移住が始まる。

リトル東京 ロサンジェルス

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リトル東京の歴史

19世紀末に数万人の日本人がこの地に移住。

この地域は19世紀中期はドイツ系移民が数多く住んでいた為、「リトル・ベルリン」等とも呼ばれていた。

1885年 日本人漁民チャールズ・カメこと茂田浜之助がロサンゼルスのダウンタウン地区1番街340番地に日本食店カメ・レストランを開店以降、25世帯の日系人が居住、日系児童の為の学校も出来、リトルトーキョー発祥の基礎となった。

1945年からギフトショップ「文化堂」がこの住所で営業している。

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1896年7月金井商店なる日本食糧雑貨店が北メイン425番地に開業し。

カリフォルニアの日本食料品販売店の元祖となった。

1903年 南カリフォルニア大学の学生だった山口正治、渋谷清次郎、飯島榮太郎ら3人が日系最初の新聞メディア「羅府新報」をこの地で創刊。

初期ガリ版刷り、11月活字になる。和菓子店「風月堂」が開店。

1906年 サンフランシスコで大地震、北カリフォルニアに住んでいた日系人数千人がリトルトーキョーに移住。

初の寿司屋、初の日系人経営の映画館「The International」がオープン。

このころの急激な日本人増加からロスでの排日ムードが高まる。

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1907年 小東京の人口が3万人を超える。

1910年 橋本錬三郎が三河屋をオープン、今なお営業中。

1911年リトルトーキョー界隈に日本人経営の店は100以上あり、飲食店、洋服店、薬屋、本屋などから魚市場・野菜市場、風呂屋に至るまであった。

また、5つのキリスト教系団体と2つの仏教団体があった。

1913年 映画「 戦場に掛ける橋」で有名な早川雪洲がこの地で演劇活動を始め、ハンフリー・ボガードとも親交があった。

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1923年 日系人の為の教会ユニオン・チャーチが完成。

1924年 日露戦争で日本が勝利した頃から起こりつつあった日本人排斥の流れの中、政府が排日移民法を制定。

日本からの移民を禁止。

1925年 中華料理店「Chop Suey チャプスイ」が開店。

チャップリン等の映画スターが数多く常連であった。

リトルトーキョー、小東京と呼ばれる様になったのは20年後の1905年頃と云われている。

20世紀に入り移民が急増し、1930年代には35000人もの日本人がロサンゼルスに移住、その多くはここに居住していた。

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1934年 日系アメリカ人の若者達が「二世ウィーク祭り」を提唱、開催。

翌年、「エンブンマーケット」がオープン。

リトル・トーキョーに隣接するボイル・ハイツ地区は日系移民やユダヤ系の住居が数多くあり、「生活の場はボイル・ハイツ、職場はリトル・トーキョー」と云うのが一般的であった。

1938年 この頃より松乃寿司が開店。

戦後、1949年までには再開している。

1941年12月に日米間で開戦されると、人種差別を背景にした政令が施行されたために全米の日系人は強制収容され、

資産も没収されたためにリトル・トーキョーに日本人の姿を見る事はなくなり、代わりにアフリカ系アメリカ人の姿が目立つ様になる。

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1942年 大統領令9066号が発令され、西海岸一帯に住む全日系アメリカ人が収容所に強制入所させられる。

リトル東京から日系人の姿は消え、ゴーストタウン、スラム化したとされる。

この頃から黒人の居住者が増加。

「コブラ・クラブ」等、黒人ジャズクラブが20店舗以上開店し、当時無名のチャーリー・パーカー等が演奏。

1950年代 日本の映画会社が相次いでこの周辺に映画館をオープン。

邦画専門館だけで5館あったと云われる。

東映映画専門館「リンダ・リー劇場」等が有名。

1964年頃 「かわふく」が、米国初の職人が握った寿司、本格的寿司バーを増設。

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1976年 広い住居を求めて多くのアーティストがリトルトーキョーに移住し始める。

これが後のアート・ディストリクト指定の基礎となる。

1977年 「ニューオータニ・ホテル・アンド・ガーデン」開業。

1978年 「ジャパニーズ・ヴィレッジ・プラザ」が完成。

1980年 「ウェラーコート」完成。日米文化会館完成。

1985年 「ヤオハン」及び「ヤオハン・プラザ」がオープン。

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1987年 レーガン大統領政権下のアメリカ政府が第二次世界大戦中の日系人収容に関して公式謝罪。

慰謝料として一人2万ドルが支給される。

1990年代 日本からの旅行者で賑わうが、バブル景気が終焉期に入り、その数は激減。

この頃、新規の店舗経営者には韓国人・中国人が目立ち、空き店舗や得体の知れない店舗が目につく等、日本人・日系人の間では「リトルトーキョーは終わった」とも囁かれ、90年代は小東京にとって冬の時代とも云われた。

1992年 全米日系人博物館が開館。

1995年 野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースと契約、小東京も野茂特需に湧く。

小東京が歴史地区に指定される。

1998年 全米日系人博物館新館がオープン。

2000年 「Mitsuwa」が経営破綻した「ヤオハン」を買収。

2006年 歴史的中華料理店「Far East Cafe」がフージョン料理店「Chop Suey Cafe and Lounge」として12年振りに開店。

「ジャパニーズ・ヴィレッジ・プラザ」鹿島建設所有の「ホテルニューオータニ」と「ウェラーコート」が約70億円で売却され、日系社会に不安が襲う。地下鉄駅工事開始。

2008年 「Kawada Hotel」が「Zen Project」を立案、50階建て330室の超高層マンションを計画。

1月から着工。「Emergency Operation Center」が完成。

5月には「ミツワマーケット」が韓国人の投資家グループによって買収される。

2009年 「ミツワマーケットリトル東京店」が閉店。

「新ジャパニーズ・ヴィレッジ・プラザ・オープン」。

ロサンゼルス郡都市圏交通局ゴールドラインのリトルトーキョー駅が11月15日に開通。

3世、4世に世代の中心が移りアメリカ社会に同化し、さらに高学歴かつ裕福な層が増加した新世代の日系人達は、地価が高く治安も良く、さらに「アメリカ・トヨタ自動車販売」や「ホンダ・オブ・アメリカ」、「リコー・アメリカズ・コーポレーション」などの多くの日系企業が

オフィスを構えるロサンゼルスの南部に位置するオレンジ郡やサウスベイ地区(トーランス市、ガーデナ市)、北側に隣接するグレンデール市などに住居を構える者が増えた。

また日系人向け、日本人向けのレストランや店舗もそれらの地域に移り、リトル・トーキョー地区の日系人口が減少して行った。

これらの動きを受けて、1990年代には「加州毎日」や「新日米」「クロスロード」等の老舗日系新聞メディアが次々と日系社会から姿を消した上に、総領事館もダウンタウンに移転した。

21世紀に入ると、周辺に新居住区計画として、数多くのアパート、マンション等が乱立していくが、購入者の大半が韓国系である事が最近分かった。

このようなアジア系人口の増加を受けリトルトーキョーの人口は数年後に4倍になるとも云われている。

韓国や台湾、中国等と違い、日本政府、行政との交流がほとんどないことや、高学歴かつ裕福な層が増加したこともあり、現在日系人や駐在員でここに居住する者は余り見られず、リトルトーキョーには日本人や日系人の数は極めて少ない。

韓国系や中国系のビジネスオーナーの姿が目立ち、東南アジア系の客の姿も少なくない。

このため、チャイナタウン等のようなロビー活動等がまったく行われていない。

また、リトルトーキョーを訪れる日本人観光客も減少している。

しかしながら、人口増加を受けて2010年代にスターバックス・コーヒーや日本発のラーメンチェーンなど深夜営業の店舗が多く出店したことなどで、深夜まで多くの客で賑わいを見せるようにもなり、かつてのような閑散とした様子とは様変わりしつつある。

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日本の戦前の移民政策

移民は口減らしが基本です。

日本の人口は、江戸時代の後半はずっと安定して3000万人程度でした。

しかし明治維新で社会環境が変わり、人口が一気に増えはじめる。

太平洋戦争の直前には、人口は9000万に近づき、80年足らずで人口は3倍近く増え、人口爆発状況成る。

西洋の農業技術も入り農業効率も大きく向上したが、人口増加が上回り、その結果、昭和初期には飢饉が発生し、餓死者・身売り・暴動が起こった。

朝鮮半島や台湾の植民地の人口を加えて1億人「こんな小さな国土にこんな大勢の人を養って行ける訳はないだろう。」という事だった。

そんな言葉に乗せられて始まったのが、南米への移民政策であった。

その頃の日本の農村は貧しく「働けど貧しくじっと手を見る」状態で、移民をして新天地を開拓しなければ、というキャッチフレーズで貧しい農民たちを勧誘して、

国策として移民政策を進めたのであった。

その頃の国の経済の収支バランスは例年少し赤字であり、それを出稼ぎ労働者からの海外からの送金で何とかつじつまを合わせるような状態であった。

昭和の初めは凶作が続き、貧しい農家などは新天地開拓という国策に乗せられて大勢の人が遠く南米まで移民することになった。

ところが政府の援助は移民を送り出すところまでで、その後は自己責任で保護はなく、初めての知らぬ異国で移民たちは随分苦労させられたようである。

しくじって帰ってきた人もいたが、多くの人たちは残るも地獄、帰るも地獄でそのまま前向きに我慢するしかなかった。

ジャニー 喜多川

1931年10月23日~2019年 7月9日、日本の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサー、ジャニーズ事務所、ジェイ・ドリーム、ジャニーズ出版、ヤング・コミュニケーション、スタジオの社長である。

アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス市生まれの日系人。

父親は日本仏教・高野山真言宗米国別院の僧侶(第3代主監)で、1946年(昭和21年)2月から1948年(昭和23年)2月までプロ野球チーム、ゴールドスターのマネージャーだった喜多川諦道。

諦道の次男として、1931年10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに生まれる。

姉はメリー喜多川、兄はNASAでアポロの設計もしていた科学者だったが1980年代に50代半ばで死去している。

1933年、喜多川一家は日本へ渡航し、大阪市で生活した。

しかし間もなくして母親が死去、やがて第二次世界大戦が勃発すると子供たちだけで和歌山県那智勝浦町に疎開した。

日本の敗戦後、1947年に子供たちだけでロサンゼルスに帰国し、現地の高校に入学した。

高校時代にはロサンゼルスの「アーニー・パイル・シアター」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、アルバイトを経験している。

ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じロサンゼルス・シティー・カレッジに進学。

1950年、美空ひばりが育ての親・川田晴久と共にアメリカ公演を行ったが、ロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったため、ステージマネージメント全体を担当する。

川田の知遇を得ると共に、ひばりとも親しく交流するようになった。このことが、日本芸能界への進出のきっかけとなる。

1952年に再来日。アメリカ大使館に陸軍犯罪捜査局 (USACIDC, CID) の情報員(通訳の助手)として勤務する。

アメリカ軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教授するために、日本でわずか11ヶ月で朝鮮語を習得し、すぐ韓国側の板門店に出向き、

1年2ヶ月間に渡って子供たちに英語を教授した。

さらに、再来日後はアメリカ大使館軍事顧問団に勤務。

その傍ら上智大学国際部(現在の国際教養学部の前進)に進学し、上智大学を卒業。

大学在学中の1955年、バンドを結成し芸能界へ参入した。

以降は日本に永住している。

ジャニーズ事務所の設立

1960年代初頭、ジャニーは自分の居住していた東京都渋谷区・代々木の占領アメリカ軍宿舎「ワシントンハイツ」で、
近隣の少年たち約30名を集め少年野球チームのコーチを務めていた。

チーム名は、本人のニックネーム「ジャニー 」からとって「ジャニーズ」と名付けられた。

チームはプロ野球の球団や力道山等に支援されており、後に練習場も池袋にある立教大学のグラウンドへと移行した。

ある日、このチームのメンバーの中から渋谷区立代々木中学校の生徒4名を選抜し映画館に連れて行く。

そして、そこで鑑賞した映画「ウェストサイドストーリー」に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意した。

ティーブ・かまやつ釜萢

1911年5月7日~1980年3月10日は、アメリカ国籍を持つアメリカカリフォルニア州ロサンゼルス市生まれのジャズ・ミュージシャンでシンガー。

戦後の日本においてジャズを普及させたミュージシャンの一人。

渡米して、現地で洋服店を営む日本人の両親のもと、1911年にアメリカのカリフォルニア州ロサンゼルス市郊外で日系アメリカ人2世として生まれた。

その後音楽に親しみ、バンジョーやギターなどの楽器を習得し、演奏を行うようになる。

その後日系人のバンド「ショー・トーキアンズ」に加入したものの、アメリカは当時大恐慌下で、アメリカでは日系人には職が得られなかったため、第二次世界大戦勃発前の1930年代後半に来日し、日米間を運航する客船のバンドで演奏した後、東京府をベースにジャズシンガーとして活躍していた。

淡谷のり子のバックバンドをやったり、中華民国の上海に赴き「上海バンスキング」のモデルとなった店で演奏する。

なお、この頃おなじく日系アメリカ2世で、日本に渡ってジャズをやっていた森山久(森山良子の父)と親しくなる。

釜萢は日本人女性と結婚したが、それが縁で森山は釜萢の妻の妹と結婚し、「妻どうしが姉妹」の義兄弟の関係になる。

第二次世界大戦末期、日本語がほとんど話せないにも関わらず召集令状がきた。

自動車の運転ができたため、輸送部隊に配属され中国戦線に渡った。

なお、「東京ローズ」の対米プロパガンダ放送のバックで、釜萢(もしくは森山)がジャズを演奏していたという説もある。

ワシントンハイツには、後にジャニーズ事務所を設立するジャニー喜多川がおり、少年野球チームのコーチをしていた。

日本ジャズ学校

第二次世界大戦の終結後は、森山久がいてボーカルは石井好子だった「ニュー・パシフィック・バンド」に入り、アメリカ軍の将校クラブやキャンプ等で演奏活動をする。

その傍ら、1950年に日本初のジャズ音楽専門学校である「日本ジャズ学校」を設立し、ミッキー・カーチスや平尾昌晃、弘田三枝子、ペギー葉山、日野皓正などの戦後の日本の音楽界を代表する

ミュージシャンを多数育て、日本の音楽界に多大な影響を与えた。

また同時に、「ティーブ釜萢とブルーリボン」などのグループとしても活躍した。

なお、息子のかまやつひろしによると、生涯、日本語はほとんど話せなかったという。

家族
息子の「ムッシュかまやつ」ことかまやつひろし、孫の「TAROかまやつ」ことかまやつ太郎も共にミュージシャンであり、息子との競演アルバム「FATHER&MAD SON」を発表している。

なお、ムッシュかまやつが在籍していたバンド、ザ・スパイダースの名付け親でもある。

また、姪(妻の姪)は歌手の森山良子、大甥(妻の大甥)はシンガーソングライターの森山直太朗、大姪(妻の大姪)は元歌手の森山奈歩、その夫はおぎやはぎの小木博明という芸能一家と縁がある。

カリフォルニア・ロール発祥 リトル・東京 ロサンゼルス

1963年、「ミスター寿司」と称される共同貿易社長の金井紀年が、ロサンゼルスのリトル東京「東京会館」に開店したスシ・バーにおいて、東京會舘オーナーの小高大吉郎の提案を受け、寿司職人・真下一郎がタラバガニの脚身とアボカドをマヨネーズであえた巻きずしを考案したのが始まりとされる。

1998年に閉店。

又、海苔を内側に巻く作り方は、米国人が海苔を気味悪がって剥して食べている姿を見た同店の職人が考案したものとされている。

後に「カリフォルニア・ロール」と命名され、1980年代までにはアメリカ合衆国各地で作られるようになり、日本にも伝わった。

又、カリフォルニア・ロールと似ている巻き寿司でカナダのバンクーバーにある有名な日本料理店「Tojo’s」の東條英員が1974年に考案した東條巻きがある。

具はカニ、アボカド、ほうれん草、卵焼きを裏巻き(外側からゴマ、酢飯、海苔、具の順になるように巻く)にしたもので、海苔や生魚に抵抗感がある客の為に作られた。これがカリフォルニア・ロールの元祖という説も一部ある。

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森永製菓の創立者
森永 太一郎

1865年8月8日~1937年1月24日、日本の実業家。

森永製菓創業者。佐賀県伊万里市出身。安倍晋三首相の妻・昭恵は外曾孫娘にあたる。

20歳で結婚し、翌年九谷焼を外国商館に販売していた横浜の陶器問屋道谷商店で数年を過ごしたが同店が倒産し、債権者への返済のために店の商品を海外で販売することを目論み1888年24歳の時に妻と長女を日本に残して渡米した。

サンフランシスコで焼き物の販売を試みたが、労働者階級の地域であり、陶器の価格も高かったため、失敗に終わった。

日本から持ってきた陶器をオークションで売り払って日本に送金し、無料宿泊所である日本人ミッション教会の厄介になりながら、米人家庭の掃除や皿洗いなどで糊口を凌いだ。

そこで日本では誰も手掛けていなかった西洋菓子の製造に目を付け、菓子工場の仕事を探したが、人種差別の強い時代のためもあってなかなか望む仕事は見つからなかった。

オークランドに移り、下働きとして住み込んだスカンジナビア人とアイルランド人のクリスチャンの老夫婦に親切にされたことをきっかけにキリスト教に関心を持ち、のちにメリマン・ハリスから洗礼を受けた。

1890年夏に一度は日本に帰国し、故郷の伊万里で福音伝道を試みたが、全く相手にされなかった。

異教に入信したことを知った叔父に勘当され、森永姓に戻る。

3か月後今度こそ西洋菓子製法の習得を目指して再び渡米し、アラメダのジョンソン・ホームベーカリーの雑用係を経て、1895年31歳の時にオークランドのキャンディー工場&キャンディーストア「ブルーニング社」の掃除係として入社した。

この当時、森永は身長180cm、体重70kgの巨漢だった。

ここでも多くの人種差別の苦難に会いながらも様々な西洋菓子の製法を身に付け、5年が過ぎ、日本に西洋菓子を普及させる時期になったと判断した太一郎は計11年間の滞米を終えて帰国の決心をした。

この時オークランドのブルーニング夫妻から「小売りをせず、卸だけやれば家賃の安い辺鄙な所でも済む自分も二坪ばかりの小さな家で菓子を作り、そこで寝泊りをして始めた」と助言を受け、1899年6月下旬に横浜に到着した。

帰国後1899年現在の森永製菓の前身となる森永西洋菓子製造所を東京・赤坂(旧溜池町、現在の赤坂1・2丁目付近)に設立した。

宮武 東洋 Toyo Miyatake

1895年~1979年は、日本の香川県出身の写真家。

太平洋戦争中、アメリカにある日系人収容所で隠し持ったレンズでカメラを作り、収容所で暮らす日系人を撮影したことで知られる。

20世紀写真界の巨匠、アンセル・アダムスやエドワード・ウェストンとも交友があった。

1895年 香川県に生まれる。

1909年 アメリカ合衆国へ移住。21歳の時に当時高名だった日系人のハリー重田から写真を学び、寝食を忘れて熱中する。

1923年 ロサンゼルスのリトル東京で、偶然にも同じ名前だったトーヨースタジオを購入し写真館を開く。

1932年 朝日新聞社に委嘱されロサンゼルスオリンピックの写真を撮影する。

1941年 日米開戦に伴いアメリカでの日系人の収容が始まり、宮武の一家6人もマンザナー強制収容所に収容され、そこで暮らす日系人たちの様子を撮り始める。

戦後再びリトル東京へと戻り、スタジオを開いて日系新聞「羅府新報」などで活躍する。

収容所での撮影

第二次世界大戦下のアメリカ政府による日系人に対する強い敵視政策によって、日系人たちは鉄条網と監視塔に囲まれた収容所へ強制収容された。

そのひとつであるマンザナー強制収容所へと家族と共に収容された宮武は、収容所では禁止されていたカメラを自ら隠し持ってきたレンズで、同じく収容されていた大工にボディーを作成してもらい手製のカメラを作り上げた。

そして同じく隠し持っていたフィルムで密かに収容所の実態を撮影していく。

後に収容所所長のメリットの許可を得て公式カメラマンとなり、収容所の内部から収容者たちの日々の生活を写し撮っていった。

杉原千畝の像

「東洋のシンドラー」と呼ばれる外交官。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスの都市で、
ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けした。

「東洋のシンドラー」杉原がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命されたのは、昭和14年(1939年)でした。

ララ物資

第二次世界大戦後、日本は、衣食住すべての面において、極端な窮乏状態になりました。

「腹を空かせ、病に苦しむ日本の子供たちを救おう」と、食料品や医薬品さらには日用品などの膨大な救援物資が「ララ物資」あるいは「ケア物資」として海外のNGOの手により届けられ、

1946年から1952年までの間に、1400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと言われます。

ララはアメリカ合衆国連邦政府の救済統制委員会が、1946年(昭和21年)6月に設置を認可した日本向け援助団体。

1946年(昭和21年)1月22日に、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人浅野七之助が、中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。

当時、アメリカ合衆国における対外的な慈善活動は「海外事業篤志団アメリカ協議会」が担っていたが、その対象地域はヨーロッパのみであり、日本は含まれていなかった。

日本に対する援助物資輸送の為に、新たな援助団体を設立する必要があった。

アジア解放前の抗日運動が冷めやらぬ中での「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きい。

救援物資の20%は、日系人が集めたものだといわれている。

黄禍論 こうかろん

日清戦争末期の 1895年春頃からヨーロッパで唱えられた黄色人種警戒論。

19世紀末にドイツの地理学者 F.リヒトホーフェンは、アジア民族の移住と労働力の脅威にふれ、黄色人種の人口が圧倒的に多いことが将来の脅威となるであろうと指摘した。

日清戦争における日本の勝利は、ヨーロッパの白人の間に黄色人種に対する恐怖と警戒の念を強めた。

ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は,かつてのオスマン帝国やモンゴルのヨーロッパ遠征にみられるように,黄色人種の興隆はキリスト教文明ないしヨーロッパ文明の運命にかかわる大問題であるから、

この「黄禍」に対して,ヨーロッパ列強は一致して対抗すべきであると述べ、特にロシアは地理的に「黄禍」を阻止する前衛の役割を果すべきであるから、ドイツはそのためにロシアを支援して黄色人種を抑圧すると主張した。

この主張の背後には,ロシアを極東進出政策に向けることによって、ヨーロッパ、近東におけるロシアからの脅威を減殺してドイツのオスマン帝国進出政策を容易にしようとする政治的意図が存在した。

この構想の最初の具体的表現が、三国干渉の対日行動であった。

その後も、第1次世界大戦中の 1914年に日本がドイツの膠州湾租借地を占領した際にも黄禍論が唱えられ、また日露戦争後から 1920年代にかけてのアメリカの排日運動の際にも、黄禍論的な議論がしばしば行われた。

 

 

 

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