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ダグラス・マッカーサーとDouglas C-54B

ダグラス・マッカーサー
MacArthur Douglas

ダグラス・マッカーサー

ダグラス・マッカーサー

米・陸軍元帥連合国最高司令官米国アーカンソー州リトルロック出身1880年1月26日~1964年4月5日ウェストポイント陸軍士官学校をトップで卒業しフィリピン勤務の後1905(明治38)年日露戦争観戦武官と成った父アーサーの副官として来日明治天皇に拝謁している。

連合国最高司令官として君臨=「マッカーサーの2000日」3000人の兵士を従えて
専用のC-54バターン号から厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、サングラスに大きなコーンパイプ姿のさっそうとした旧敵国将軍を日本人は「畏怖と尊敬」で見つめた。

占領下の日本に連合国軍最高司令官として君臨したマッカーサー元帥は、米国に帰ってすぐ、日本人の事を「12歳の少年のよう」と語って、日本国民を憤慨させた。

ダグラス・マッカーサー

ダグラス・マッカーサー

1942年3月31日、日本軍の猛攻で、「アイ・シャル・リターン(I shall Return )=私は必ず帰ってくる)」との言葉を残してコレヒドール島からオーストラリアへ退却を余儀なくされたが、1944(昭和19)年10月に反攻を開始、同月20日にはその予言通りフィリピン中部のレイテ島に上陸、戦場のスピーカーを通じて「フィリピン市民諸君、私は帰って来た。

わが軍はアメリカ、フィリピンの両国民の血で清められた土の上に再び立っている。全将兵よ団結せよ」と、万感の思いを込めて放送、1945年2月マニラを解放した。

Douglas C-54B

バターン号はアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥の専用機。マッカーサーが1945年8月30日、厚木海軍飛行場においてアメリカを含む連合国軍による日本占領の第一歩を記した時の乗機として名高いが、これは2機目のバターン号である。

3機のバターン号 1号時

ボーイングB-17Eフライングフォートレスの改装機。シリアルNo.は41-2593、1943年に改装された。輸送機への改装にともなってXC-108という機種記号が与えられている。機首と尾部の機銃以外の武装を撤去し、38名が搭乗できた。

マッカーサーはフィリピンからオーストラリアに脱出するときにもB-17を使用しているが、それとこのバターン1号機とは別の機体である。

Douglas C-54B

Douglas C-54B

2号機

ダグラスC-54B輸送機の改装機で、1945年4月から1950年まで使用した。マッカーサーが1945年8月30日に沖縄本島経由で厚木に到着したとき、および1950年6月29日、朝鮮戦争勃発直後に最前線を視察したときの乗機はこの2号機である。

3号機

ロッキードVC-121Aコンステレーションで、1950年9月から1951年4月まで使用した。

シリアルNo.は48-613。1951年4月16日、朝鮮戦争における中華人民共和国に対する核兵器使用発言などを含む一連の反シビリアン・コントロールが問題となってハリー・トルーマン大統領から国連軍総司令官を解任され、日本を去ったときの乗機はこのバターン3号機である。

バターン3号機はその後1952年から1953年にかけて、国連軍総司令官と日本占領軍最高司令官をマッカーサーから引き継いだアメリカ陸軍のマシュー・リッジウェイ将軍の専用機として使われた後、

1965年まで太平洋航空軍司令部の要人輸送機として使用された。又、1960年代後半にNASAのゴダード宇宙飛行センターで使用されていたこともある(民間登録番号N422NA)。

 

 

 

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