ゼロ戦「栄」オリジナルのゼロ戦
飛べるゼロ戦の魂は今も生き続けている日本の物作りの原点がここにある零戦を支えた中島飛行機「栄」エンジン
カリフォルニア州のチノにある、航空博物館プレーンズ・オブ・フェイムが所蔵する零式艦上戦闘機(ゼロ戦)五二型「61-120」機はオリジナルの零戦で世界唯一、飛行が可能な機体保管されている
「61-120」は1943年、群馬県の中島飛行機小泉製作所で製造され、第261航空隊へ配属、硫黄島、サイパン島と移動し、1944年6月ほぼ無傷のまま米軍に捕獲された。その後米本土へ移送され、さまざまな調査が行われ「ゼロ・ファイター」と恐れた零戦の秘密を解明した。
「61-120」機は1944年11月、スクラップに成る事が決まりますが、1957年、プレーンズ・オブ・フェイム(POF)が同機を入手し、徹底的なオーバーホールが施され、再び空を舞う事が可能に成ったのです。
零戦名前の由来
零式艦上戦闘機は第二次世界大戦期における日本海軍の主力として活躍した艦上戦闘機で「零戦」の略称で使われている。零戦が制式採用された1940年は皇紀2600年にあたり、その下2桁が「00」が名前の由来と成っている。
中島飛行機
創業者は中島知久平、1917年 から1945年 まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカーで通称は中島。エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。
1917年5月、元海軍機関大尉 、中島知久平によって、群馬県太田市の中島自身の出生地に設けられた飛行機研究所が中島飛行機の原点である。
後に飛行機研究所は日本飛行機製作所と改称され、さらに中島飛行機製作所を経て1931年12月15日に中島飛行機株式会社と成った。
1910年代の中島知久平は横須賀海軍工廠造兵部員として飛行機開発を担当し、日本海軍式水上機・横廠式中島トラクター試作水上機・横廠式試作双発水上機・横廠式ホ号乙型試作水上機などの設計主務を行っていた航空機技術者であった。
ゼロ戦 栄エンジン
第二次世界大戦期に中島飛行機が開発・製造した空冷星型航空機用レシプロエンジン。海軍名称は栄、陸軍にハ25として採用された。
零式艦上戦闘機・一式戦闘機「隼」のエンジンとして有名であり、合計3万3233台製造された。このエンジンを元に18気筒化し誉(ハ45)が開発された。
戦略爆撃の第1目標となった武蔵製作所
1944年11月24日、マリアナ諸島を飛び立ったアメリカ軍のB29部隊は、ターゲットナンバー90.17-357を目指した。
東京都北多摩郡武蔵野町にあった中島飛行機武蔵製作所である。武蔵製作所はB29で1945年8月8日まで計9回にわたって爆撃され、壊滅的打撃を受けた。
爆撃機数は約505機で投下された爆弾は2602.5トン。中島飛行機が戦略爆撃の目標とな成ったのは、日本の戦力を奪うのに最も効果的だった。
第2次世界大戦では航空機による戦闘が最も大きな意義を持つように成り、制空権を得た側が圧倒的に有利な戦いを進める事が出来た。
中島飛行機武蔵製作所では戦闘機や爆撃機のエンジンと機体を組み立てていて、生産能力を奪ってしまえば日本の戦力は大幅にダウンすると考えていた。
日本で1927年から1945年までに生産された3万578機の戦闘機の内、半数以上の1万6763機が中島飛行機で作られている。アメリカ軍が爆撃の第1目標にしたのは当然だった。
戦後の日本
戦前の日本の産業のレベルは欧米に比べ劣っていたが、その中で航空機産業の技術は比較的高いレベルを持っていたが、戦後GHQによって航空機生産が禁止されると、航空機技術者たちの多くが、自動車産業へと移っていった。
「翼をもぎ取られた技術者たち」の選ぶ道は、自動車へと身を投じ、戦後の自動車産業の基礎を担った数多くの航空機技術者たちがいた。中島飛行機で、数多くの飛行機に搭載されたエンジン、栄・誉を設計した技術者達のその後は・・・
●戦後、プリンスそして日産でスカイラインを作り上げた中川良一氏、立川飛行機で高高度戦闘機キ-94を設計した。
●トヨタでカローラを設計した長谷川龍雄氏
●中島飛行機・陸軍でジェット・エンジン、ネ-130等の開発を手がけ、戦ホンダでF1グランプリを戦った中村氏等の方達が戦後の日本で活躍した。
富士重工業
戦争の時代に生まれて兵器となる航空機を生産したが、中島飛行機がその中で培った技術力は戦後に平和な産業で大きく花開くことになる。
1953年に誕生した富士重工業は、中島飛行機が離合集散を重ねた末にたどり着いた姿だ。
スバルは戦後の日本自動車史の中で重要な位置を占め、水平対向エンジンと四輪駆動を組み合わせたユニークなパワートレインを持つことで世界に知られている。
プリンス自動車
中島飛行機の技術者たちが多く参加して誕生した会社だ。独立して存在した期間は短かったが、高い技術力によって革新的な名車を生み出した。1957年にデビューしたスカイラインは、今もその名を継ぐモデルが作り続けられている。
富士重工もプリンスも、中島飛行機の哲学を継承してクルマ作りに魂を吹き込んだ。優秀な人材を育てた日本最大の航空機メーカーの物語は、一人の先覚者の苦闘から始まる。
プリンスR380
プリンス自動車工業が開発した日本初のプロトタイプレーシングカー。
1964年の第2回日本グランプリにおいて、プリンス自工は本来は直列4気筒1500ccエンジンを搭載するプリンス・スカイライン(S50型)のノーズを延長させ、プリンス・グロリア用SOHC直列6気筒2000ccG7型エンジンを搭載し、ウェーバー製ダブルチョーク40DCOE型キャブレターを3連装した
スカイラインGT(S54型)で参戦したが、ポルシェ・904に惨敗した。プリンス自工は雪辱を期し、スカイラインGTの設計チーフである桜井眞一郎を中心として、純レーシングカーであるR380の開発に取り掛かった。車名の「R」はレーシング、「380」はプリンス自工として38番目のプロジェクトを意味した。
飛行可能な零戦の数
支那事変から太平洋戦争にかけて、国産機としては空前絶後の1万400機あまりが生産された零戦だが、終戦後70年以上が経過した原型をたもつ零戦は世界に30機たらずしかない。しかし驚くべきことに、そのうちの5機はいまも飛行可能なのである。
零戦52型
米カリフォルニア州の大戦機保存団体“プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館(POF)”が所有する零戦52型 [61-120]号機は、オリジナルの栄発動機で飛行できる唯一の現存機だ。現存する零戦の中ではもっとも原型機に近い機体である。
戦時下のサイパン島で米軍に捕獲されたこの機体は、米本土へ空母で移送され、米軍パイロットの操縦によって徹底した飛行試験が行われた。神秘のベールに包まれた零戦の全貌を明らかにするためだ。
やがて戦争が終結すると余剰物資となり民間に放出され、それをPOFの創始者が購入。レストア作業に約5年が費やされ、1978年、飛行可能な状態まで復元された。
同年、念願の“里帰り飛行”がかない、埼玉県桶川飛行場で最初の公開飛行が実施され、さらに1995年にも二度目の“里帰り飛行”が実現。また2012~13年にかけて所沢航空発祥記念館で展示されたのは、この機体である。
零戦22型
ロシアで新造された零戦22型が3機、いまも飛行可能な状態で存在している。かつて日本軍が占領していたニューギニア島の飛行場跡地で、1991年に発見された22型の残骸がその原型だ。
発見された残骸は、米国航空博物館オーナーが購入し、ロシアの航空機生産工場へ移送された。当時のロシアには、民主化によって仕事を失った軍需関連会社が多数存在しており、高度な設備、優秀な技術者、安価な労働力が非稼働な状態だった。ここで希少価値の高い零戦を新造させ、博物館や大戦機収集家に販売するのが目的だ。
この新造作業には、残骸から各部材の寸法を割り出して新たなパーツを製造する“リバース・エンジニアリング”技法が用いられ、三菱重工の協力を得て入手した300枚あまりの図面も参考にされている。
第1号機 [X-133]には、他の2機と同様オリジナルの栄発動機ではなく、米国製P&W R-1830エンジンを搭載している。
1998年、初飛行に成功し、現在は世界最大の大戦機保存組織“コメモラティブ・エアフォース(CAF)南カリフォルニア支部に所属して、全米のエアショーで精力的に飛び回っている。
第2号機 [UI-161]は、マイクロソフトの共同創業者のひとりポール・アレン氏が所有。この機体はなんと複座型に改造され、2012年に進空している。
第3号機 [AI-112]は、2000年に初飛行に成功。現在は日本人がオーナーであり、2016年には日本へ移送され、鹿児島上空などで飛行した。
零戦21型
1968年、オーストラリアの北東に広がるソロモン諸島で、カナダ人大戦機収集家ボブ・ディマート氏は8機分の零戦の残骸を回収した。彼はその残骸をもとに3機の零戦21型を新造し、フライトにも成功している。しかしその3機は現在、飛行可能な状態にない。
第1号機はフロリダ州の米海軍航空博物館、第2号機はハワイの太平洋航空博物館で展示されており、第3号機は墜落で失われた。しかし、その3機の新造作業で使用されなかった残骸をもとにして、もう1機の21型[AI-1-129]号機が新造されている。
当初はカナダの企業がはじめたプロジェクトだったが、機体が完成するまえに倒産。それを米ノースダコタ州のダコタ・ブレイド社が引き継いだ。
主要な部材は、米最大のアルミメーカーであるアルコア社の協力を得て新造。主脚柱など鋼材部品の一部は、回収した残骸に再生加工をほどこして流用し、2004年に二度目の初飛行に成功している。
零戦32型は飛ぶか?
そして現在、6機目の“飛ぶ”零戦のレストア作業が進行中だ。極めて希少性の高いこの零戦32型は、マーシャル諸島タロア島で回収された残骸をもとに、米ワシントン州のレジェンド・フライヤー社において、リバース・エンジニアリング技法によって製造されている。
プロジェクトが予定どおりに進めば、2017年中には初飛行が報告されるはずである。