チャイニーズキャンプ
カリフォルニア州
Chinese Camp California
チャイニーズ・キャンプはアメリカ合衆国カリフォルニア州トゥオルミ郡にある過疎集落で、人口は146人の町カリフォルニアのゴールド・カントリー南端のシエラ・ネバダ山脈の草原に位置している。
チャイニーズ・キャンプの歴史
町の名前は、1849年の頃からのゴールドラッシュに中国人労働者が住み込んで金の発掘作業をしていたことが由来で付けられた。
当時は一攫千金を夢見て移り住んだ人達で賑わい、小さい町ながらも人口約5000人でしたが、今現在は人口は126人まで減少している。
現在のチャイニーズ・キャンプスクールは中国の塔のようなデザインをしている。
チャイニーズ・キャンプは、カリフォルニアのゴールドラッシュに湧いた鉱山町で、当時は「キャンプ・ワシントン」と呼ばれていた。
1849年にカリフォルニアに到着した最初の中国人労働者の一部は、キャンプ・サルバドから追い出され、現在の場所に定住し「チャイニーズキャンプ」又は「中国人ディギングス」と呼ばれた。
又いくつかの中国寺院あり、1899年には250万ドル分もの金が採掘されていた。
現在のチャイニーズキャンプスクールは、中国の塔の様式でドロレス・ニコリーニによってデザインされ1970年から運営されています。
以前はチャイニーズキャンプスクールは教会の近くにありましたが、2006年5月4日に地元の一部の人々の不注意によって火事で失われました。
チャイニーズキャンプはカリフォルニアの歴史的ランドマーク #423に登録されている。
1849年に設立されたセント・フランシス・ザビエル ローマカトリック教会は郡の最も古い教会で、ジョン・ニコリーニによって1949年に改修されましたがその後破損しました。
教会自体はストックトン 大司教区が所有しています。
1854年4月18日に一般店にチャイニーズキャンプ郵便局が設立されたが、現在建物は現在空き家で、地元住民から賃貸された土地の郵便局が運営されている。
1860年の日記では、中国のキャンプが多くの都会の快適さを備えた採掘地区の大都市だったと記録されています。
1860年代初頭にゴールドカントリーの多くでプレーサー採掘が行われていましたが、1870年にはまだ活動していませんでした。
チャイニーズ移民
アイリッシュの他にも、イタリア、ギリシア、ポーランド、ユダヤなどいろいろな人々がヨーロッパからやって来ましたし、アフリカから連れてこられた奴隷も沢山いました。
中国からの移民が本格的にカリフォルニアに流入しだしたのは、1850年頃でした。
ゴールドラッシュの鉱夫として人が必要だった一方、中国では清朝末期の太平天国の乱で国土の荒廃と農民の困窮が加速していた。
「金の山」の魅力に連れてこられて来た人たちは、ひどい労働環境で働かされたわけですが、それでも本国の惨状よりはましだった。
広東地方では、村を挙げて若い男子を出稼ぎに送り出し、地元に送金させました。
1850年代に中国人のアメリカ移民は4万人台程度にまで達します。ヨーロッパ系移民と異なり、中国移民は最初からアメリカで法的に厳しい差別をされていました。
中国人は移民一世がアメリカ市民権を取得出来ず、ヨーロッパ系米国人と結婚する事も土地の所有も許されず、又「非アメリカ市民の鉱夫」(=中国移民)は特別な人頭税も課されていました。
当時、中国はまだ清朝の皇帝が支配する体制で、漢民族は満州風の辮髪(べんぱつ)を強制されており、契約年季があければ本国に帰るつもりの「出稼ぎ」であった為に、
辮髪(べんぱつ)を切ることに躊躇した人が多く、その為に見かけも一般アメリカ人から見ると「異様」でした。英語も話せず、知能の低い二級民族であるとの烙印を勝手に押されていました。
1862年にカリフォルニア州知事となった鉄道王レランド・スタンフォードは、「アジアのクズどもからカリフォルニアを守らなければならない」などと演説している。
当時は東からは入って来たアイルランド系の移民が鉄道建設労働者に多かったのですが、それでも足りないので、現場監督が試しに中国人を雇い大成功した。
アイリッシュよりもはるかに効率が良いという事に気がついた。
中国人たちは村から送り出された若い男子ばかりで、彼らは料理人を雇い、サクラメントやサンフランシスコから乾燥食品を持込み、豚や鶏を飼い、野菜や魚まで入手して、バラエティのある食生活をしていたそうです。
また、お湯を沸かしてお茶を淹れるという習慣がありました。これに対し、アイリッシュたちは、ポテトとビーフしか食べず、生水と酒ばかり飲んでおり、病気やトラブルが多発していました。
この為、崖から吊るされて岩を掘るといった厳しい現場の環境でも、中国人は赤痢にもかからず健康で、体格は貧弱で給料はアイリッシュより安いのに、黙々とチームワークを発揮して働く、優秀な労働者でした。
もちろん、鉄道会社にとってはこんなありがたい社畜はいません。おかげで、セントラル・パシリック鉄道の労働者の9割が賃金の安い中国人と成り効率が良かった。
1868年には、アヘン戦争後の天津条約の改訂版であるバーリンゲーム条約が締結された。
清から米国への移民が正式に法的に認められて、アメリカからは中国にエージェントが出かけ、中国人をリクルートして回りました。
渡航のお金がない中国人は、渡航後の給料から渡航費を払うという契約で、どんどん連れてこられました。
1870年代には12万人以上という、移民のピークを迎えます。
しかし、市民権を取れないなどの法的な制約が緩和されず、なまじ優秀なためにかえって職を奪われる白人からは攻撃され、
仕方なく中国人たちは自分たちだけのコミュニティに固まって閉鎖的な生活を強いられ、ますます孤立と差別が激化していきます。
米国に帰化できず、いつ国外追放されるかわからない不安定な身分が続きます。
中国本国での伝統的価値観から女性は家に縛られて動けず、男性だけが渡航したのに、白人とは結婚できない為、中国人売春婦の人身売買という問題も多数あったそうです。
アメリカに売られた人が多かったそうです。
鉄道工事に従事したのがアイリッシュとチャイニーズと聞きます。「つらい仕事でもいつかは つらい仕事でも果てが来る。
汽笛がホームに鳴り渡れば つるはし投げ出し息たえる」この歌歌ってたのはアイリッシュとチャイニーズだったんです。悲しみと希望に満ちた歌では・・・