ラスベガスの開拓者
ベンジャミン・シーゲル
ラスベガスネオン輝き世界巨大ホテルベスト10の内9つを持つエンターテイメント・シティ「ラスベガス」は、年間観光客約5000万人、ハワイの約5倍世界最大の観光都市も100年前にはラスベガスの人口は25人。
1840年代末に現在のカリフォルニア州で金が発見され、ゴールドラッシュが起こると、カリフォルニアに向かう砂漠の中の貴重な中継地点として定住する者が現れた。
1905年、ユニオン・パシフィック鉄道の開通に伴って、水の便の良いラスベガスは蒸気機関車の給水地となり、ダウンタウンに駅が造られた。
1931年4月、コロラド川の氾濫をせき止める為に、大恐慌の失業者対策の1つとして、ニューディール政策の「フーバーダムの建設」が始った。
フーバーダム、多くの労働者が集まり、同時に飲酒、ギャンブルが解禁と成り、ラスベガスの街も次第に賑わうが、当時はまだ、西部劇に出て来る様な街だった。
1935年、黒部ダムの約10倍で高さ223m、幅379mの、フーバーダム完成。
建設の為に掘り出された岩は、万里の長城が造れる程使われたコンクリートは、西海岸のサンフランシスコから東海岸のニューヨークまでハイウエーが出来る量。
ダムの完成により、世界最大の人造湖「ミード湖」が誕生。水の確保と広域の電力供給を補ったが、まだ、この時のラスベガスは、人口約2万人のさびれた街だった・・・・
ラスベガスの父 ベンジャミン・シーゲルとは?
バグジーとマフィア
1906年2月28日ニューヨークのブルックリンで、ウクライナ出身のユダヤ系の貧しい両親の間に生まれる。両親は彼が生まれる数年前にキエフからアメリカへ移民し、家族は堅気で兄は医者に成っている。
バグジー11歳の時にマイヤー・ランスキーに誘われてラッキー・ルチアーノの一味に成るが、ランスキー共々ユダヤ系でシチリアン・マフィアの世界では表舞台に立つ事は出来なかった為、
シーゲルは影の参謀で鉄砲玉として働き、後に社会問題化する暗殺部隊「マーダー・インク」の礎を築いた。
少年時代にはストリート・ギャングと成り、マンハッタンのローアー・イースト・サイドのラ・ファイエット通りを中心として窃盗などの犯罪を働き、露天商から上納金を取り立てたりした。
若い頃、ヘルズ・キッチン地区のアパートのベランダから、下を歩く巡回中の警察官にレンガや水を入れた袋を投下したりしていた。
バグジーと言われたが、本人はバグジーと呼ばれる事を嫌っていた。バグジーとは「頭が狂った」という意味で親友だけが呼べたが、親しくない者が本人の前で呼んだら大変な事に成った。
1936年、シーゲルは特命を受けてハリウッドに移り住む。当時のハリウッドはユダヤ系のミッキー・コーエンが仕切っており、同じユダヤ系のシーゲルが橋渡しとして送り込まれたのである。
バグジーとハリウッドの女たち
180cmの長身に甘いマスク、透き通るような青い瞳、社交的で女性好きだった。本物のギャングだと判っていても、ハリウッドの女たちはシーゲルの虜と成った。
バグジーは、映画スター並のハンサム、服装には気を使い、シャツはハンドメイドでシルク製で当時としては破格の$200もするスーツを着ていた。整髪にも手を抜かず指にはマニキュアをし、身体もジムに通い鍛えていた。ナイトクラブやレストランでは気前もよくウェイターにはチップを渡していたと言う。
バグジーとムッソリーニ
数多くの女優や有閑マダムとベッドを共にしたシーゲルだったが、中でも特に興味深いのがドロシー・ディフラッソ伯爵夫人を巡るエピソードである。
彼女は時の独裁者、ムッソリーニと顔見知りだった。そこでシーゲルは彼女を従えてイタリアに出向き、ムッソリーニに「アルマイト」なる新型爆弾を売り込んだのである。
ところがアルマイトの性能が悪く、煙が立ち上るだけの不発に終わった。腹を立てたムッソリーニは伯爵夫人の身分を格下げ、2人を来賓室から追い出した。
代わって招かれたのは、何とあのゲッベルスとゲーリングだった。バグジーは怒る狂った。
「ムッソリーニをぶっ殺してやる!それからあのゲッベルスとかいう奴らものな!」伯爵夫人が必死こいてなだめた為、暗殺には至らなかった。
バグジーとバージニア・ヒル
1940年代にヒルはカリフォルニア州に移り、ベンジャミン・シーゲルと出会い、彼の妾となった。バグジーは浮気性で、彼女とはしょっちゅうひっぱたきあっていたという。
彼女と出会った頃、友人に「バージニアのベッドテクニックは最高」と言っていた。バグジーはヒルのフェ●チオの技術を称えて彼女の事を「フラミンゴ」と呼んでいたそうです。
彼女の足が綺麗でフラミンゴと言われていたと聞いた事がありますが?ヒルはバグジーと出会う前にラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、ジョー・アドニスなどギャングの大物と関係を持っており、尻軽な女性としてやゆされた。
ヒルはハリウッドで派手な生活を続け、ビバリーヒルズに自身の屋敷を購入し、そこでハリウッドの有名人を毎晩のようにもてなした。
しかしヒルはハリウッドの有名人達を、彼らのプライベートをネタにゆすっていたとも言われている。
2人がメキシコで秘かに結婚したという噂もあるが、彼自身は妻のエスタと離婚する事はなかった。
東海岸のマフィアは、バグジーがヒルを、彼の為だけの運び屋として、スイス銀行の預金口座に金を運ばせる為に使ったと考え、フラミンゴの建設費を掠め取っているのではないかと疑い始めた。
バグジーとマフィアの間に抗争が勃発するとヒルは1947年6月10日パリに逃れた。それはバグジーが屋敷で撃ち殺される10日前の事だった。
フラミンゴの死
ヒルは余生をヨーロッパで過ごし、晩年にはウェイターとして働いていた息子のピーターが彼女の面倒をみた。
1966年3月24日、オーストリアのザルツブルクで、睡眠薬の大量摂取によって死亡、自殺であると考えられている・・・
バグジーとラスベガスの出会い
バージニア・ヒルと一緒に、ボスのルチアーノの特命でダウンタウンのカジノの様子を見に行った帰り道、砂漠のど真ん中ダウンタウンから約10km離れた場所に、リゾートホテルの建設を思い付く。
1944年の事だ、当時、ラスベガスは、駅周辺のダウンタウンにカジノバーが数件あったったが、さびれた砂漠の街だった。
当時はネバダ州以外は賭博は違法で、ロス在住のギャンブル馬鹿はわざわざネバダ州のリノまで行かなければならなかった。
そこでシーゲルが目をつけたのが砂漠の町、ラスベガスだ。ここならリノよりもロスに近い。
バグジーはダウンタウンを訪れた際フーバーダムが出来る事に寄って砂漠に水と電力の可能に成り、ラスベガスが将来ビックビジネスに成る事を感じ
ダウンタウン南に大規模カジノを作り、華麗なナイトショーを繰り広げる一大ホテルを作る事を思い立つ。
シーゲルは、1931年以来ギャンブルが合法化されており、いくつかのカジノが成功していたラスベガスに目を付ける。
当時のラスベガスにはまだ小規模なカジノしかなく、シーゲルからすれば三流に過ぎなかった。彼の夢はハリウッドの洗練された魅力をラスベガスに持ち込む事だった。
バグジーとフラミンゴ
それまでラスベガスに無かった壮大なホテル、フラミンゴを作る為ランスキーやコステロといったマフィアのボスに頼み資金をかき集めた。
ルチアーノから大金を引き出したシーゲルは、当時の愛人ヴァージニア・ヒルの愛称に因んだ伝説のカジノホテル「フラミンゴ」の建設に着工する。
フラミンゴの建設業者は、後にニューヨーク・ヤンキースの共同オーナーにも成るアリゾナの大手、デル・ウェブ社が工事を担当した。
建設時、第二次世界大戦後で、建設資材が不足していたが、工事を急ぐシーゲルは、闇市から資材を調達した。
費用は150万ドルから600万ドルに大きく膨らみ、オープン初日にも客室はまだ工事中という有様だった。カジノは儲かるどころか赤字続き。やがてシーゲルが建設費を着服しているとの噂が広まり、遂にバグジー討伐と成る。
資金はマフィアが出資、当初計画の建設予算をオーバーしマフィアに脅されたが、理想のホテルを作る事に妥協しないバグジーは、それを無視した。
必ずホテルがオープンしたら、ホテルに沢山の客が来る事を信じて疑わなかったが・・・
バグジーの最後
完成したホテルの名称は当時付き合っていた彼女のニックネームから「フラミンゴ」と命名した。
オープン当日ショーのタレントなどを乗せる飛行機が欠航、オープンから計画違い。ホテルの運営は赤字続き。結局、マフィアへの多大な損害を与えた報復として彼は暗殺、1947年6月20日の事である。
刺客が放った銃弾は自慢の青い瞳を奪い去った。それは4mも吹き飛ばされて、床に転がっていたと言う。
皮肉な事に彼が命を張って作った一大ホテルはその話題性でその後大繁盛。その成功に続けと次々とその近辺に巨大ホテルが建ち、現在に至っている。
『バグジー』(Bugsy)は、1991年のアメリカ映画。実在の人物、ベンジャミン・シーゲルをモデルとしている。