南北戦争
1861年~1865年
Civil war
エイブラハム・リンカーン
アメリカは西部へ領土を拡大する段階で迎えて工業化が進んだが南部は綿花生産を主産業としていた。
北部工業地帯は欧州との工業製品輸出競争の兼ね合いから、自国産業保護を訴えて関税をかけるなどの保護貿易を求めた。
南部農業地帯は自由に綿花を輸出したい為、自由貿易と関税撤廃を求めた。
こうして南北の対立が非常に深まった。
又、重工業化の進んだ北部では労働者が不足する事態となったので、19世紀初頭に続々と黒人奴隷を解放して、労働者として使用した。
これら解放された奴隷の一部はアフリカ大陸への帰還を希望し、アフリカ西海岸にリベリアが成立した。
南部では19世紀半ばを過ぎても黒人を奴隷として使用し、広大なプランテーション農業を行っていたが、北部の工場を経営する資本家はこの豊富な黒人労働力を必要としていた。
しかし、英国からの綿花需要が拡大し、南部ではますます黒人奴隷に頼る産業構造となった。
領土が西部に広がり、植民地の人口が増加したことにより、これらの植民地を州に格上げする事と成った時、これらの新州に奴隷制を認めるかで南北対立と成った。
1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える共和党が結党され、農民の支持が多かった民主党と対立した。
1860年に大統領となったのが共和党エイブラハム・リンカーンである。
彼は黒人奴隷解放を政策とし、北部の資本家から喜ばれた。
すると南部の奴隷州は反発しアメリカ連合国(南部連合)を結成して離反した。
当然合衆国の認めるところではなく、南北戦争という形で火を吹いた。
南軍有利で戦争は進んだが、北軍は海上封鎖などで対抗、1863年にリンカーンは奴隷解放宣言を発表すると急速に支持を拡大、ゲディスバーグの戦いで北軍が勝利を収めると南軍の勢力が弱まった。
1865年、南部連合は降伏してリンカーンは憲法を改正して奴隷制廃止を明文化し、黒人に市民権が与えられたが、彼は俳優で南部過激派の
ジョン・ウィルクス・ブース John Wilkes Boothに射殺された。
黒人は奴隷制から解放されたものの、社会的な差別や人種差別主義者からの迫害からは守られる事はなく、クー・クラックス・クラン等による私刑は20世紀半ばを過ぎても多くの黒人の命を奪い続けた。
奴隷解放後、南部のプランテーション農家の多くは産業の基盤を失って没落したが、中には解放奴隷を小作人として雇い入れ、南北戦争前と実質的に殆ど変わらない経営を続けた大農家も多く存在した。