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ポップアート アメリカのカルチャー

ポップアート Pop Art

現代美術の芸術運動の一つで大量生産・大量消費社会をテーマで1950年代半ばのイギリスでアメリカ大衆文化の影響で1960年代にアメリカ合衆国でロイ・リキテンスタインとアンディ・ウォーホル等のスター作家が世界的に影響を与えた。

ポップアート以前のアメリカでは抽象表現主義がもてはやされていた時代。抽象表現主義は、表現方法がアートを難解なものにし、一般大衆とアートの世界の間に壁を作っていたが、それに対してポップアートは、抽象表現主義に対して内向的すぎると批判をした。

現代の風景

第二次世界大戦後の先進国では、毎日、大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。

ポップアートの運動の中には、生活様式を批判する意図をこめたものもあれば、自分達を取り巻く大量生産・大量消費社会の風景を、山や海や農村にかわる新しい「風景」ととらえ、親しみ深い風景の一部である商品や広告を、美しく「風景画」に描こうとするものもある。

ポップアートの聖地ニューヨーク

ポップアートが盛んに成ったのは、1960年代のアメリカのニューヨークが中心地と成り、アメリカのポップアートの代表格ロイ・リキテンスタインと、商業デザイナーだったアンディ・ウォーホルの二人が世に出た。

大量に印刷され、絵柄も似たり寄ったりの漫画は、既製のイメージの中で悪趣味なものではあるが、単純で力強い線などが魅力的であり威力があった。

アンディ・ウォーホルはキャンベル・スープの缶、洗剤ブリロの箱、マリリン・モンロー等、女優や有名人の写真などのイメージを用いた版画を大量生産した。

ポップアートは映画や漫画等の大衆文化同様、観客の心を一瞬で掴む強い魅力的なイメージを持っているのでわかりやすく、しかもアメリカの大量生産品や大衆文化をテーマにしている為、アメリカの豊かさを賛美する魅力的な芸術として歓迎された。

ウォーホルとリキテンスタインらポップアートの作家たちは、カウンターカルチャーの時代における大衆絵画作家としても成功した。※カウンターカルチャーとは、既存の、あるいは主流の体制的な文化に対抗する文化という意味である。

1960年代後半〜70年代前半にかけてよく使われた。 狭義にはヒッピー文化や、1969年のウッドストックに代表されるような当時のロック音楽を差す。

ポップアートの熱狂は1960年代末に成ると、巨大産業の消費システムに取り込まれ、その先はフォークロア、ヒッピー、ドラッグという現実逃避の方向に流れた。※フォークロアとは、古く伝わる風習・伝承など。またはそれを対象とした学問。

ポップアートの末期は、ドラッグによる幻覚を表現したピーター・マックスらのサイケデリックアートへと変質したが、これらはむしろ商業デザインとして大量消費されてしまう皮肉な結果となった。


ポップアートの巨匠アンディーウォーホル
1928年8月6日~1987年2月22日

アメリカの画家・版画家・芸術家でポップアートの巨匠。銀髪のカツラをトレードマーク、ロックバンドのプロデュースや映画制作なども手掛けたマルチ・アーティスト。ペンシルベニア州 ピッツバーグでスロバキアの移民の子として生まれる。兄が二人おり、両親は敬虔なカトリック教徒で、彼自身も同様に育ち生涯を通じ教会へ通った。

体は虚弱で、肌は白く日光アレルギーであり、赤い鼻をしていた。早い時期から芸術の才能を発揮。肉体労働者だった父は1942年、アンディが14歳の時に死去、その後は母のジュリア一人に育てられる。アルバイトをして地元の高校に通い、カーネギー工科大学に進学し広告芸術を学び1949年に卒業した。

ザ・ファクトリー

彼はアート作品を工場で大量生産するかのように制作していく事から自分のスタジオを「ザ・ファクトリー」と呼び、アート・ワーカーと呼ばれるスタッフを雇って機械的に作品を量産していきます。そんな彼の狙いはアーティストとアートを切り離すことでした。あえて彼自身の手を加えないでアートを制作する事でアートからアーティストの影を消し去ったのです。

「アンディ・ウォーホルのすべてについて知りたければ、表面だけを見ればいい。」アンディ・ウォーホルのこの言葉の通り、彼の作品こそがアンディ・ウォーホルの全てあって、そこに隠された意味なんてありません。アートからアーティストの感情や思想は全て取っ払われているからです。

出来上がったアートはアーティストの所有物ではなく、皆のものと成ります。まるで大量生産されたコカ・コーラが多くの人に愛されるように。「全ての人に開かれたアートを」というポップアートの考えを彼は大衆イメージの大量生産という方法でクールに体現したのです。

アンディ・ウォーホルの作品

キャンベル・スープ缶、シャネル N°5やコカ・コーラ、アブソルート・ウォッカの瓶、ブリロ・ボックス等エルヴィス・プレスリー、エリザベス・テイラー、イングリッド・バーグマン、ジョン・F・ケネディ、ジャクリーン・ケネディ、マイケル・ジャクソン、マリリン・モンロー、マーロン・ブランド、ミック・ジャガー、チェ・ゲバラ、毛沢東、モハメド・アリ、レーニン、ミッキーマウス、ミニーマウス等アンディーの作品は、当時の有名人らのステイタスとされ、多くの有名人が自分の姿のプリントを希望した。

キース・へリング
1978年~1982年

1980年代のグラフィティー・アート落書きの先駆者の一人で、地下鉄の広告板の空きスペースを自分の発言の場に選んだ。彼は地下鉄管理部の許可を得て絵を描いていたが、時に911に通報され、また、ポリスに詰問され、留置された経験がある。

へリングは1990年、31歳でエイズ亡く成った。彼は愛らしいイコンを描くグラフィティーのスターとして知られていた。

しかし、彼は「アートとは一部の階級の人のものでなく、一般の人のものだ」という確信から、アートを手段とし、社会から阻害されているゲイの自分を×印(悪の習性)で表現する反面、ゲイが蔑視されない理想社会を夢見て芸術活動を行っていた。

ジャン-ミシェル・バスキア
1960年~1988年

ニューヨーク市ブルックリンで生まれたアメリカの画家。グラフィティ・アートをモチーフにした作品で知られるが、グラフィティとの関係はあまりないハイチ系アメリカ人。

プエルトリコ系移民の母親とハイチ系移民の父親の間に生まれ、幼い頃から絵を描き、芸術的な活動をするように母親から奨励されていた。17歳の頃から地下鉄、スラム街地区の壁などにスプレーペインティングを始める。高校を中退したバスキアは、Tシャツやポストカードを売りながら生計を立てていた。

徐々に彼の描いたスプレーペインティングは評価され、キース・ヘリング、バーバラ・クルーガーの助力でニューヨークで個展を開くように成った。又、絵の中に描かれる王冠は彼のトレードマークとな成っている。

1983年にはアンディ・ウォーホールと知り合い、作品を共同制作するようにもなる。

1987年のウォーホールの死まで2人の互いに刺激しあう関係は続いたが、バスキアは徐々にヘロインなどの薬物依存症に陥り、妄想癖が見られるように成った。

そしてウォーホルの死によりさらに孤独を深めると共に、ますますヘロインに溺れていった。1988年、ヘロインのオーバードーズにより27歳で死去。

生涯が映画「バスキア」として1996年にアメリカで映画化され、死後もその生涯と作品は注目を集める。監督はジュリアン・シュナーベル。ジェフリー・ライトがバスキアを演じた。

代表的なアーティスト等

ロイ・リキテンスタイン
ピーター・マックス
キテンスタイン
ジャスパー・ジョーンズ

 

 

 

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