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ズ二族 黄金都市伝説の民

ズ二族

ズ二族

ズ二族 Zuni 
アリゾナ州とニューメキシコ州西部州境のリトル・コロラド川の支流であるズニ川の谷のプエブロに住んでいる、プエブロ族の一つである。

ホピ族との関係が強く、人口約10000人が登録されている。1877年に米国連邦政府によって正式に登録された。

ズニの村落はニューメキシコ州ギャラップから55km南に位置し、居留地区とニューメキシコ州のキャトロン郡とアリゾナ州のアパッチ郡に拠点を持っている。 ズニ達は故郷をシウィンナキンと呼んでいる。

ズニ族の歴史
ズニ族は、紀元前1000年頃からズニ川の谷に住んでいたと考えられている。ズニが現在の場所に3000年〜4000年間農耕を営み、トウモロコシを栽培する為の灌漑技術を行っていた。

ズニ・プエブロに近い「グレート・キバ村」は、11世紀に建設され、人口と居住地の規模が拡大し12世紀頃には小規模な農村に成っていた。

ズ二族

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14世紀には、ズニは180室から1400室のサイズの村が12あったが、ズニを除く全てのプエブロは1400年に何だかの理由によりこの地を立ち去った。200年後に9つの大きな新しいプエブロが建設され、1650年頃には、異なる6つのズニ村があった。

これらは、初期のスペイン人探検家が探し求めていた「 シボラの 7つの黄金伝説の都市」であった。

1539年、 ムーア人の奴隷エステバニコがフリー・マルコス・デ・ニザのスペイン遠征の先導者を行い、スペインがプエブロの人々と最初の接触と成った。

2000年代初めの論争は、ズニとゼニの支配下で尊敬されているサイトであるズニ・ソルト・レイク近くの炭鉱の開発に対するズニの反対に関連していた。 鉱山は湖の下の帯水層から水を抽出し、湖とズニの間の建設も含むだろう。 計画は、2003年にいくつかの訴訟の後に放棄された。

ズ二族

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新大陸に「黄金の七都市シボラ」
噂の始まりは、1150年頃にアフリカのムーア人(主にベルベル人)に追われたスペインの7人の司教が、どこか遠い所に黄金で「シボラとキビラの町」あると言う伝説。

1539年3月、メキシコなどで布教活動をしていた修道士マルコス・デ・ニーサは、ソノラ北方の国の探検隊に選ばれ出発する事に成る。

彼は、バカの「難破」で書かれている莫大な財産の国がシボラだろうと見当を付け、バカやエステバニコなど4名をガイドにしました。

探検隊は首尾よくシボラと思われる町が見えるところまで達するものの、隊員のほとんどが病気と成ってしまい、マルコスはそのメキシコシティにも匹敵する大きさの都市を遠目に見るだけでした。探検は病気にかからなかったエステバニコによって続けられ、彼はズニの村に到達した。

しかし、エステバニコの生涯は突然に終止符を打つ事と成る。彼は薬入れとして瓢箪を持っていたのですが、その飾になっているフクロウの羽は、ズニの人々にとっては不吉なもので、エステバニコは村人の信用を得る事が出来ず殺された。

黄金の七都市シボラと思われたズニには、マルコスの見聞録を見たフランシスコ・バスケス・デ・コロナドが、マルコスをガイドに探検するのですが、そこは黄金都市とは言えそうにない場所と判明した。

ドワ・ヤラン(コーンマウンテン)ズ二族

ドワ・ヤラン(コーンマウンテン)ズ二族

ドワ・ヤラン(コーンマウンテン)
Dowa Yalanne 
ズ二・インディアン・リザベーション の南東5kmに位置する、標高2217mあるメサです。メサは、 アリゾナ州とニューメキシコ州の州境のマッキンレー郡にある。

ドワ・ヤランはズ二の人々にとって神聖なもので、 メサは神社や宗教活動の場であり、外部には閉鎖されている。 日の出は冬至のメサの南西に位置する。

ドワ・ヤランは「神の家と雨、稲妻、雷鳴」と神話的に深く関係している、 別名 「サンダーマウンテン」と呼ばれている。

1540年にコロナド探検隊を逃れる為にメサに逃げたズ二の人々の聖地で、ホウクウの村のズニ族は、コロナドの遠征の攻撃から逃げる為にドワ・ヤラン・メサの頂上に逃げた歴史がある。

ズ二族

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1540年から1680年のスペイン人の避難所として使われた古代の建物と呼ばれ14の建物がある。

約130ヘクタールをカバーするメサの上部には、約48のプエブロ構造が1680〜1692年の間に建設されました。1680年にドワ・ヤランの人口は約2500人と推定され、1階と2階建ての建物には500室以上ある。

ズニ族全体の集落がひとつの集落に集まった最初の村で、ズニは1680年のプエブロ反乱の前に6つの村に住んでいた。 反乱の後、1692年まで彼らはズ二の現在のプエブロの南東5kmのメサであるドワ・ヤラン(Dowa Yalanne)の頂上で自己防衛の為に避難した。

スペインの撤退後、平和が訪れズニは現在の場所に移り住み、1703年にメサの頂に戻った。ズ二族は19世紀半ばに自給自足していたが、アパッチ族 、ナバホ族、プレイン・インディアン の新たな攻撃に襲われた。メサのトップはアパッチの敵対的攻撃に対しても避難場所に成った。

ズ二族

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ズニの文化
ズニは、ズニが約7000年間伝統的にズニ語を使っているが、ズニ族は、ケレサン族 、ホピ 族、ピマ族から宗教に関する共有の言葉の関係も深い。

ズニは、通常の儀式や舞踊、独立したユニークな信念体系で伝統的な宗教を信仰している。

16世紀末にはスペイン人の入植が始まったが、リオグランデ川流域を囲む沙漠は、19世紀半ばまで大規模なヨーロッパ人の侵入を排除した。

スペイン伝道所は、プエブロの宗教者や宗教施設を殺害・破壊してカトリックへの改宗を強制したが、プエブロのインディアンたちは伝統的な宗教を維持し続けた。

キリスト教者による武力による宗教弾圧に対しては、1680年にはポペ率いる集団がプエブロの反乱を起こし、武力で抵抗した。

ズ二族

ズ二族

ナバホ族、コマンチ族、アパッチ族などの略奪部族は彼らの伝統的な敵であった。スペイン人は1692年以降、彼らの伝統的な敵を共通の敵とする事で同盟し、首尾よくニューメキシコを再征服する事が出来た。

プエブロ集落は大きな共同の建物で、それぞれの家族は建物の一つの部屋に住んでいる。家族が大きく成ったら、横に部屋が付け加えられる。タノア語ではないプエブロとヘメスの中では、部屋の所有権は主に母親から娘までの母系である。

したがって、ホピやズニ、ケレス、またはヘメスの男性が離婚したら、彼は母親か姉妹の家に移動する。一方でタノア語のプエブロは父系である。

プエブロは、ほぼトウモロコシの農業のみによって定住自活するインディアングループである。彼らの宗教行事はトウモロコシの種付けから収穫祈願、雨乞いなどで構成されている。

ズ二族

ズ二族

又、集落に近づくバッファローを狩る事もあり、バッファローの到来を祈る「バッファロー・ダンス」は、野生のバッファローが白人によって絶滅させられた現在も続けられている。

布を織る事はヨーロッパ人の到来以前にプエブロに知られていたが、彼らが機織りを知ったのがアステカよりも前なのか後なのかは不明である。

しかし衣服は高価であった為、スペイン人の征服後にいつも装っていたというわけではなかった。他のインディアン部族の例にもれず、平素は動きやすい腰布姿だった。

銀細工に秀でた部族が多く、トルコ石と合わせた「インディアン・ジュエリー」などの工芸品は世界的に評価が高い。プエブロの筒型太鼓も民芸品として人気があり、サンタフェには彼らの工芸品を扱う専門店が常設されている。

ホピ族

ホピ族

アルバカーキには「プエブロ文化センター」があり、彼らの伝統的な宗教行事を見学できる場と成っている。

食文化
農耕民族である為、トウモロコシを中心にチリ、サヤエンドウ、タマネギ、ニンニク、ヤムイモ、カボチャ、ニンジンなどを食す。ホルノスという釣鐘型の野外用オーブンをパンや他の調理に使い、ベイクド・キャロットなどのラタトゥイユに似たオーブン料理がよく知られる。

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