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ハリウッド 光と影 赤狩り

ハリウッド カリフォルニア州
Hollywood California

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム

制作される映画の都

トランプハリウッドでは映画の世界興行収入のランキング上位を独占し年間700本もの映画が制作される映画の都大統領の登場で国民の間に亀裂が生じ、分断社会になったと評されるアメリカ、実は1940~1950年代のアメリカも、現在のように分断が加速していた。

共産主義者などをアメリカの敵として、強引なやり方で社会から排除しようとする「赤狩り」旋風が吹き荒れ喜劇王のチャールズ・チャップリンもその被害者に、そんな赤狩りは今のアメリカに何をもたらしたのか?

ハリウッド・チャップリン

ハリウッド・チャップリン

ハリウッドサイン(ハリウッドのシンボル)

1923年新興住宅地「ハリウッドランド」の宣伝を目的目的に不動産会社が設置、映画の都になり、ランドを取ってしまった。

ハリウッドサインは、高さ14m幅110mある。

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム

名声の歩道は、カリフォルニア州ハリウッド大通りとバイン通り沿いの歩道の5kmほどの間にエンターテイメント界で活躍した人物の名前が彫られた2000以上の星型のプレートが埋め込んであり、毎年星の数は増えている。

1959年より、ハリウッドの商工会議所により設立された。

最初の半年で1500以上の星が埋め込まれ、1994年にその数は2000を超えている。

ハリウッド商工会議所6人選考委員が、毎年6月に映画、テレビ、音楽、ラジオ、舞台の5つの分野で活躍した人物を対象に、1年間300人候補があり、25人から30人が選ばれる。

大統領トランプは、2007年ミスユニバースを主催した功績で星のプレートがあるが、 2回破壊され修復された。

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム

ハリウッドとは?

ロサンジェルスの一部でテレビ、音楽などを含むアメリカ西海岸のエンターテーメント産業全体を指す。

ロサンゼルス近郊にあり、世界の映画市場を独占する米国映画の製作拠点の町。

ユニバーサル、パラマウント、20世紀フォックス、ワーナー・ブラザースなど、大手映画会社の撮影所が集中している。

この地に最初の撮影所が建てられたのは1908年。

映画産業の独占をもくろんだエジソンらが締結した特許協定問題に煩わされることを嫌った映画会社や映画監督たちが、東海岸から移ってきた。

温暖で雨の少ない気候条件がロケに適したこともあり、大手映画会社も次々にスタジオを建設、海外からの監督や俳優をも積極的に受け入れ、映画都市が形づくられた。

映画の都ハリウッド

ウオールト・ディズニー・スタジオ ディズニー映画の本拠地

ワーナーズ・ブラザーズ・スタジオ 作品は、スパーマン、バットマン

ユニバーサル・スタジオなどの映画スタジオがあり、ユニバーサル・スタジオは、

1915年設立され東京ドーム38個分の広大な敷地がある。

ハリウッドの年間映画製作本数約700本されている。

世界映画歴代興行収入
Best 5

1位 アバタ                                             2009年 約3100億円

2位 タイタニック                                  1997年 約2400億円

3位  スター・ウオーズ                           2015年 約2300億円

4位アベンジャー/インフィニティー・ウオー   2018年 約2200億円

5位ジュラシック・ワールド                       2015年 約1800億円

現在の価値に換算して世界映画興行収入1位の作品は、

1939年の映画「風と共に去りぬ」で4100億円が最高興行収入と言われている。

ハリウッド名作ヒストリー

D.W.グリフィス監督
イントレランス  1916年

散り行く花       1919年

チャールズ・チャップリン監督・主演
キッド            1921年
黄金期            1925年

ジャズ・シンガー         1927年 世界初の長編 トーキー映画
蒸気機関車ウイリー    1928年 ミッキーマウス登場
ある日の出来事          1934年 空前の大ヒット フランクキャップラー監督
ロマンスコメディーの元祖
風と共に去りぬ          1939年

第二次世界大戦 プロバガンダの映画作品の代表作

我々は何故戦うか1942年~1945年
カサブランカ           1942年 マイケル・カーティス監督
救命艇                   1944年 ヒッチコック監督
真珠湾攻撃              1943年 ジョンフォード

映画と政治が結びついていた。映画は影響力がありテレビが無かった政治的な意図が刷り込まれる。

戦後のハリウッド映画作品の代表作

素晴らしき哉、人生!1945年
黄色いリボン           1949年ジョンフォード
アフリカの女王        1951年
雨に唄えば              1952年 ジーンケリー

ハリウッドは何故発展したか?

1 ユダヤ人移民

イギリスからハリウッドに渡り喜劇王の称号を手に入れたチャールズ・チャップリンはユダヤ人であり、

スティーブン・スピルバーグやウディ・アレンといった著名な監督も、ユダヤ系移民の血を引くという背景を持っている。

つまり、アメリカ映画界を代表する監督や俳優の家系がユダヤ系移民である。

映画会社の創設者が、全員ユダヤ人

パラマウントのアドルフ・ズーカー、ワーナーのワーナー4兄弟(ハリー、アルバート、サム、ジャック)、コロムビアのハリー・コーン、MGMのルイス・B・メイヤー、さらには1912年に設立されたユニバーサル映画社のカール・レムリもユダヤ人である。

どのような経緯によってハリウッドでの映画製作が始まったのか?

独占禁止法がMPPC(Motion Picture Patents Company)を壊滅させた。

1910年代になって、アメリカ西海岸のハリウッドでは映画会社による撮影所が続々と開設されたが、その経緯の裏側にはMPPC がアメリカ国内における映画の製作・配給・上映を独占していたことに対する反発があった。

しかし、映画製作の拠点が東海岸から西海岸へと移ったことで、MPPCは次第に弱体化していった。

2 西海岸の気候

ハリウッドは、一年のうち300日が晴天に恵まれ、強い日差しが映像を鮮やかにし、ロケ地として最適だった。

当時はフィルム感度の問題から屋外のような明るい場所でしか撮影が出来ませんでした。降水量東京の4分の1 日照時間で東京の約2倍

1900年代初頭、禁酒法でハリウッドの酒場はすっかり落ちぶれていたが、そんな様子が西部劇のロケ地にぴったりであった。

カリフォルニアには太平洋の海岸線から、シエラネバダ山脈、モハベ砂漠からレッドウッドの森まで、あらゆる自然の風景が存在する。

ハリウッドだけではなく、その周辺も映画制作の場としてピッタリだったようです。

また自然だけでなく、ロサンゼルスとサンフランシスコという、タイプの異なる都会がある。

3 発明王エジソンからの逃避

最初の撮影所が建てられたのは1908年。

映画産業市場を発明王エジソンらが独占した特許協定問題に煩わされることを嫌った映画会社や映画監督たちが、東海岸から移ってきた。 ユダヤ人は東海岸で差別があった。

東西冷戦時代「赤狩り」 暗い歴史 映画の都の光と影

ハリウッドを見る事でアメリカ現在史の縮図が分かる、かつてハリウッドは政治に野取られた歴史がある。

赤狩り

共産主義者や進歩的自由主義者を社会的に追放すること。言葉の語源は、中世末期のヨーロッパで行われた魔女狩りwitch-huntにある。

アメリカ合衆国における赤狩りの歴史は有名で、19世紀以来、社会主義運動に対し「非アメリカ的」であるという理由でさまざまな迫害が加えられた。

とくに第一次世界大戦中から戦後にかけて、ロシア革命への危機感などから、パーマー司法長官のもとで、共産主義者はもとより無政府主義者や労働運動指導者に対する大々的な取締りが実行された。

その後、第二次世界大戦中に、1940年の外国人登録法などによって共産主義活動への規制が強化され、戦後、下院に非米活動委員会が常設されるに及んで赤狩りは活発化した。

そしてマッカーシズムの出現で一つのピークを迎え、自由の擁護の名のもとに自由の抑圧が進行した。

ハリウッド カリフォルニア州

ハリウッド カリフォルニア州

赤狩りとチャップリンがハリウッドから追放

1945年に第二次世界大戦が終結し、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで「モダン・タイムス」以降の一連の作風が「容共的である(共産主義的)」とされ、非難の的とされた。

特に1947年公開の「殺人狂時代」以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、赤狩りを進める下院非米活動委員会から、

他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。

1952年、ロンドンで「ライムライト」のプレミアのために向かう船の途中、アメリカのトルーマン政権の司法長官ジェームズ・P・マグラネリーから事実上の国外追放命令を受ける。

自身の意にはそぐわなかったが、スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還した。

アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議し、決定した国務長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。

マグラネリーは特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と声明を出した。

チャップリンは1952年にアメリカから追放されたが、アメリカアカデミー名誉賞を受賞するため1972年に20年ぶりにアメリカに入国。

マッカーシズム/赤狩り

1950年代のアメリカの共産主義あるいはその同調者に対する取り締まり運動。

共和党員マッカーシーによって推進され、「赤狩り」があらゆる社会で猛威をふるった。

マッカーシズムとは?

1950年代初め、朝鮮戦争の時期のアメリカで、共和党の上院議員マッカーシーを中心とて行われた、反共産主義の政治活動で、多数の政治家、役人、学者、言論人、芸術家、映画人などが親共産主義者として告発された動きの事。

政府内部ではニューディール時代からの民主党系の自由主義的な国務省のスタッフがその対象とされ、さらに学者が言論人にその告発が及んだ。

マッカーシーの執拗な共産主義者の摘発は、「赤狩り」と言われ、トルーマンもそれを黙認、追及の手はマーシャル前国務長官にまでおよび、「マッカーシー旋風」が吹き荒れて国民の不安を駆り立てた。

次のアイゼンハウアー大統領の時期にも続いたが、朝鮮戦争が終わり共産主義への脅威が後退するにつれて、マッカーシーの強引なやり方は反発を受けるようになり、54年にマッカーシーが解任され、ようやく沈静化した。

しかし、その後も共産主義を排除するアメリカ社会の気風は永く続いている。

マッカーシズムとハリウッド

マッカーシズムの追求は映画産業の聖地ハリウッドにも及んだ。多くの映画人がそれに抵抗し、たとえばチャップリンはハリウッドを追われた映画人だった。

マッカーシズムに協力した人々

メキシコ革命の農民指導者サパタを描いた「革命児サパタ」や、ジェームズ・ディーンのデビュー作「エデンの東」などで知られるエリア・カザンもその一人だった。

ハリウッド・ブラックリスト

グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール、ダニー・ケイ、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(ジャズ音楽家)、キャサリン・ヘプバーン、ジーン・ケリー、ビリー・ワイルダー、フランク・シナトラなどが反対運動を行った。

グレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった。

一方で、政治家のリチャード・ニクソンや映画業界人のロナルド・レーガン、ウォルト・ディズニー、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラー、エリア・カザンらは告発者として協力した。

又、ジョン・ウェイン、クラーク・ゲイブル、セシル・B・デミルらも「赤狩り」を支持した。

容認派

セシル・B・デミル監督、ジョン・ウエーン、エリア・カザン監督・俳優、クラーク・ケーブル、ゲリー・クーパー、ドナルド・レーガン、数百人が追放された。

リベラル派

ジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・バガード、ヘンリー・ホンダー、ジンケリー、ビリー・ワイルダー

ジェームス・ダルトン・トランボ
James Dalton Trunbo

映画「トランボ ハリウッドが最も嫌った男」の主人公、赤狩りを生き抜いた男

「赤狩り」という一時的な集団ヒステリーともいえる社会状況によって人生を狂わされたハリウッド・テン(ブラック・リスト)入れられ仕事も名誉も失い悲劇的な人生を歩まされることになったが、「ハリウッド・テン」の中でただ一人、その努力と才能、友人たちの力によって、危機を乗り越えただけでなく映画人にとって

最高の名誉ともいえるアカデミー脚本賞を2度も受賞した人物が、ダルトン・トランボです。

アカデミー脚本賞を受賞した「ローマの休日」の脚本家がイアン・マクレラン・ハンターではなくダルトン・トランボだったことは、1993年初めて公式に明らかにされた。

BBC放送の人気ニュースキャスター エド・マロー

そのような状況を言論の自由の危機であると感じた一人が、BBC放送の人気ニュースキャスター、エド・マローだった。

プロデューサーのフレッド・フレンドリーらのスタッフと組んでマッカーシー上院議員の調査法や追及の誤りと矛盾を番組で取り上げる。

さまざまな圧力が彼らに加えられ、マッカーシー自身も反論する。

マスコミの言論の自由の危機と闘った一人の男を取り上げた映画が、2005年製作、ジョージ・クルーニーが監督主演した『Good Night and Good Luck』、この言葉はエド・マローが番組の最後にいつも言っていた言葉。

1954年3月9日に放映された「See it Now」の30分間の特別番組「ジョセフ・マッカーシー上院議員についてのレポート」の中で、「共産主義の脅威と戦い自由を守る」との言葉を盾にして、強引かつ違法な手法で個人攻撃を行うマッカーシーのやり方を鋭く批判した。

なおこれらの一連のマローによる「赤狩り」及びマッカーシーへの批判は、アメリカの大手マスコミによる初めての「赤狩り」及びマッカーシーへの批判となった。

マッカーシズムの終焉
その後、マッカーシーのために用意された反論番組で「私の番組を30分やるから好きに話すといい」と言って用意したの中で、マローはマッカーシーから「過去に共産主義の宣伝に関わっていた」、「ソ連と関係の深いテロ組織のために働いていた」、「共産党と関係に深い人物と親密な関係がある」などの、信憑性に欠ける虚偽の情報を元にした攻撃を受けたが、

その攻撃に対して一つ一つ事実を説明しながら冷静に反論した。

マッカーシーのこの根拠に欠ける攻撃とそれ対するマローのこの対応は、マッカーシーとその一味の、根拠なきでっち上げを多く含み、さらに法と倫理を無視した攻撃手法に嫌気がさしていた。

多くの視聴者から支持を得た。これをきっかけに、それまではマッカーシー一味に攻撃されることを恐れて抑えられていた、アメリカ国内のマスコミによるマッカーシー批判が広がった。

その強硬な手段は次第に不信感を増殖させ1954年にその告発の根拠は無かったとして調査委員会委員長の地位を解任され、数年後にアル中で死亡した。

 

 

 

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