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建国初期 1789年~1865年

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建国初期  1789年~1865年 Founding  States

アメリカの歴史

アメリカの歴史

1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移されたが、南部の住民には首都が北に偏りすぎているという批判があった。

その為、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州とバージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決め、1801年に新首都が完成した。

新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。

米英戦争
1803年、ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収した事で、広大な西部の土地を獲得し、西部に住む農民たちがミシシッピ川を物流路として自由に使えるように成った。

ルイジアナ買収の数週間後、ナポレオン・ボナパルトひきいるフランスとイギリスは戦争状態に入ったが、アメリカは、ヨーロッパへの農産物の輸出で得た外貨に依存していた。

アメリカは、フランスとイギリスに対して中立の態度を取り、フランスとイギリスの持つカリブ海沿いの植民地に対しての農産物や原材料輸出を行ったが、イギリスからすると、フランスと商売されたら封鎖を邪魔しているのと同じ事に成ると激怒していた。

1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスの海上封鎖を実施した。またイギリスはアメリカの貿易政策に対しても海上封鎖を実施し報復を行った。

イギリスがアメリカ以外の国からの農産品輸入をしないと考えたアメリカ議会とジェファーソン大統領は、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止した。しかし、イギリスは他の国からの農産物輸入に切り替えてしまう。

アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。そこで1812年、イギリスがミシシッピ西部とカナダの先住民を支援している事を口実とし、南部と西部出身の議員が中心と成りイギリスへの宣戦布告をし、米英戦争と成った。

南部と西部の入植白人達は、インディアンの土地を得る事や農産物輸出の拡大を期待して、戦争を熱心に支援した。

米英戦争中に欧州との関係が途絶え、経済的・文化的に孤立する事と成った為、アメリカ人としての精神的自立を促した。これによってナショナリズムが高まり、保護関税をし自国内の工業を発展させた。

モンロー主義(孤立主義)
モンロー大統領は1823年に欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表、これは後にモンロー主義(孤立主義)と成り、アメリカ大陸の孤立化をした。

その後100年近く続くアメリカの孤立主義という外交方針と成った。モンロー主義は「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」という宣言で、1890年の「フロンティア消滅宣言」の頃まで「アメリカ合衆国内の先住民インディアンの排除」に専念した。

先住民インディアンの掃討が完了した1890年頃以降は、太平洋・ラテンアメリカへの政治的・軍事的介入へ展開していく。

1830年代、ジャクソン大統領は選挙権を拡大、民主政治が発達した。

家柄にとらわれる事なく政治家と成る事がで出来た一方、大量に選挙人がいる事は、候補者が大規模な選挙活動を行う事と成り、当選した際には活動協力者に役職を提供した。

この政策に賛成する親ジャクソン派は民主党を、反ジャクソン派はホイッグ党を結成し、後の共和党と成った。

インディアン移住法 
ジ建国初期  1789年~1865年ジャクソン大統領は「インディアンは白人と共存し得ない。野蛮人で劣等民族のインディアンはすべて滅ぼされるべきである」と議会で演説し、「インディアン移住法」を可決した。

これは、ミシシッピ川以東の大多数のインディアンを、強制的に白人のまばらなインディアン準州(オクラホマ州)の、連邦政府が保留した土地に移住させ、白人社会に同化させる。これに従わない部族は絶滅させるという民族浄化政策だった。

オクラホマへのインディアン強制移住「涙の道」どの部族も陸軍によって徒歩による大陸横断を強制され、数千、数万と言われる途上死者を生んだ。

東部のインディアン部族勢力のチェロキー族、クリーク族、チカソー族、チョクトー族、セミノール族の五部族がこの政策によって、徒歩で大陸を横断し涙の道と言われるオクラホマへ移住させられた。途上死者は数千とも数万とも伝えられる。

Wikipedia参照

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