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エイブラハム・リンカーンとインディアンと西部開拓

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エイブラハム・リンカーンとインディアンと西部開拓

エイブラハム・リンカーン

エイブラハム・リンカーン


エイブラハム・リンカーンは、アメリカ合衆国の歴史上初の共和党所属の大統領であり「奴隷解放の父」と呼ばれた。有名なゲティスバーグ演説、南北戦争による国家分裂の危機を乗り越えた事が評価され、歴代大統領ランキングでは「最も偉大な大統領」の一人に挙げられる。

南北戦争と奴隷制
アメリカは独立宣言後、国土を拡大していくが、西部の開拓が進むにつれて、南部と北部の対立が表面化しいった。

南部では、イギリスとの経済的結びつきが強く、イギリスから多くの輸入をしていた為に安い関税を掛け、黒人奴隷をつかった綿花栽培のプランテーションが発達した。

北部では、国内の産業を発展させる為に輸入品に高い関税をかけ、工業化が進み新たな労働力確保が大問題と成っていった。南部の奴隷が開放されれば労働力である彼らを雇う事が出来ると黒人奴隷制度に反対していた。

この状況の中で1860年11月に大統領選挙が行われる。争点の一つが奴隷制に関する問題で、奴隷制に反対する共和党のリンカーンが当選する事に成ります。

こうなると、南部の人達の危機感が強まり、大統領選挙の翌年には南部の7州が合衆国を脱退しジェファソン・デヴィスを大統領とするアメリカ連合国の独立を一方的に宣言し、対立が深まっていく事に成ります。1861年4月には武力衝突が発生し南北戦争の始まりです。

南北戦争は、4年の激闘の末北部が勝利し、アメリカ合衆国は再び統一され、奴隷解放が宣言された。

戦争は残酷な反面、経済を発展させる側面を持っている。この戦争によって、ライフル銃、物資を運ぶための鉄道、電信技術等も発展した。

ゴールド・ラッシュと大陸横断鉄道
植民地時代から西部の未開拓地域が開拓され1848年にカリフォルニア州で金鉱が発見、
ゴールド・ラッシュが開拓を活発にし、1869年にはアメリカで最初の大陸横断鉄道が開通した。

ホームステッド法
エイブラハム・リンカーンが1862年5月20日に署名して発効した法律で、アメリカ西部の未開発の土地、1 区画 1約 65 ヘクタールを無償で払い下げ自営農地法とも呼ばれる。

土地の払い下げを受けようとする者は申請時に 21 歳以上で、当該区画を確立し、3.6 x 4.3 m以上の大きさを持つ住居を建て最低 5 年間は農業を行ったという実績が必要であった。

第二次産業革命
アメリカ合衆国東部で1871年頃に第二次産業革命が始まった頃、フロンティアには人が集まり始めていた。ワイルド・ウェストは、土地の大部分が公有地で、広い土地での畜産も農業も自由であった。

地方の政府機関も殆どなく、軍は特定の場所に集中していた。バッファローの狩猟者、鉄道労働者、放浪者、兵士らの小競り合いが銃撃戦に発展した。

町ではダンスホールやサロンがテキサスの牛追いの商人の食事をまかなった。テキサス南部からカンザス州アビリーンに通じる1290kmの歴史的なチザム・トレイルは、1867年から1887年まで、東部に運ぶカンザス・パシフィック鉄道の始発駅まで牛を追う道に使われた。牛追いを襲う牛泥棒は深刻な犯罪であった。

インディアン

ナバホ族 コードトーカー

ナバホ族 コードトーカー

1862年「ホームステッド法」を可決し、全てのインディアンを保留地に定住させた。彼らに狩猟民族であろうと遊牧民族であろうと一律にその文化を捨てさせ、農業を強制するものであった。

先住民であるインディアンは、突然やって来た侵略者に自分達の土地を強奪され殺された。奴隷解放の父であるリンカーンは、インディアンに対しては強い迫害を行なった。

民族浄化を試みロング・ウォーク・オブ・ナバホや、ダコタ戦争などインディアン戦争はリンカーン政権下で行われた。

リンカーンが師と仰いだ人物ヘンリー・クレイは、徹底したインディアン排除論者であり、それを受け継いだリンカーンもまた同様であった。

1862年、ダコタ・スー族の反乱
「俺たちは10年も前に土地を奪われた。俺たちは狩りをして生活していたのに、狩りを禁止のこの土地へと追いやられた。白人政府は、土地と引き換えに支払うと年金を約束したのに、まるで払ってくれない」 彼らは食べるものにも困り、飢餓状態だった。

ミネソタ州の狩猟民族ダコタ・スー族のインディアンが、大統領直轄の「インディアン管理局」に対して、「領土と引き換えに条約で保証した年金を支払え」と要求したが、無視されたためミネソタ大暴動を起こした。

ミネソタ暴動後も、暴動とは関係のない1700人のダコタ族もスー族だからとの理由で西方の保留地に強制移住させられ、保留地は外に出る事を許されない強制収容所だった。

ダコタ戦争
戦争と名は付いているが、実情は飢餓状態となった少数民族の暴動であった。暴動の結果は、米国処刑史に残る38名のダコタ族の一斉絞首刑とミネソタからのダコタ族の追放という、インディアンに対する合衆国の民族浄化と成った。西部大平原におけるインディアン戦争の先駆けとされている。

1863年、この夏、リンカーンはジェームズ・カールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐を命じた。

ナバホ族はダコタ族同様に、保留地年金を要求し、米軍に抵抗していた。カールトンはナバホ族の土地に金鉱があるともくろんでいた。

カールトン准将は対ナバホ作戦の指揮官として、キット・カーソン大佐を送り込んだ。カーソンは「ニューメキシコ義勇軍第一騎兵隊」を率いて、殺人、強姦、放火など徹底的な焦土作戦を行い、ナバホ族のトウモロコシ畑や小麦の畑を焼き尽くし、馬とラバを43頭、羊とヤギを1000頭以上奪った。

1864年、リンカーンはナバホ族8500人の、約480km東にあるアパッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行を命じた、これが有名な「ロング・ウォーク・オブ・ナバホ」です。強制連行で数百人の死者が出たが、その殆どが子供や老人だった。

ボスク・レドンドでナバホ族は強制労働を課され、女は米軍兵士から強姦され、乳幼児の殆どが生まれて間もなく過酷な環境下で死んだ。結局、リンカーンの死後の1868年に和平条約が調印されるまでに、2000人以上のナバホ族が死んだ。

リンカーンの有名な演説にある「人民」には、インディアンは含まれていなかったのです。

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